2021年03月の記事 (1/1)
- 2021/03/11 : 中年の星、木村一基九段の「百折不撓」人生 [勝負師の魂]
- 2021/03/11 : 【惹かれ合う心】タムとジュリアの物語(敗者髪切りマッチの裏側) [勝負師の魂]
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※本稿は2019年11月16日に海殺しX事務局便りに掲載したイチパチ海物語攻略の達人の最終章からの引用です。(一部、加筆及びカットあり)
諦めない男
「百折不撓」(ひゃくせつふとう)という言葉をご存知でしょうか。これは棋士の木村一基氏が色紙に好んで揮毫する言葉です。何度も倒れても、起き上がり、決して挑戦を諦めないという意味です。
デビュー当時の木村四段
ご覧の通り、木村氏は精悍な雰囲気がみなぎるなかなかのイケメンです。いや、「でした」と過去形で言うべきでしょうか!?
デビュー以来、木村氏は驚異的な高勝率を誇り、タイトルの獲得は時間の問題と思われていました。
しかし、勝率は高くても、棋士の最盛期である20代はタイトルと無縁のまま無常の時間が過ぎ去りました。棋士の第二の最盛期といわれる30代になってから漸く竜王戦の檜舞台に立ちましたが、七番勝負(先に4勝した方が勝ち)は渡辺 明竜王にストレート負けを喫しました。
その後、タイトルに挑戦すること5回、全てチャンスをものにできずに敗退を余儀なくされました。その中には3連勝後に4連敗してタイトル奪取に失敗するという不名誉な記録も含まれています。
悲劇のヒーロー
その後の木村氏は悲運の棋士として人気が急上昇しました。近頃は将棋のタイトルマッチがインターネット番組で生中継されることが恒例となっており、どの棋戦でも木村氏は名物解説者として招かれ、お茶の間の人気者になりました。
ファンを大切にする木村氏は常に初心者にもわかりやすい解説を心掛け、少しでも将棋を知っている人であればわかりきった手順でも決して手を抜かず、しっかりと解説する姿勢は将棋を覚えたての人に絶賛されました。
しかし、木村氏が初心者向けに解説をすれば、中級以上のファンは退屈します。そのこともよくわかっている木村氏は解説中にジョークを連発したりして、視聴者の全階層を楽しませる努力を惜しみませんでした。
いつしか木村氏は「解説名人」と呼ばれるようになりました。これは木村氏の人気の高さを示すものではありますが、現役棋士としてはあまり有難くない称号です。野球でもなんでもそうですが、通常、解説や評論の名手というのは引退した人です。
木村神話
又、長年の戦いでボロボロになり、頭髪が抜け落ち、ありきたりの中年男のルックスに変貌してしまった木村氏には「オジサン」というニックネームがつけられました。ファンは親しみを込めてそう呼んでいるだけなのですが、本人にとってはあまり嬉しくない愛称です。
しかし、将棋の強いオジサンとして木村氏は年老いても第一線で戦い続け、タイトルには無縁でも、その強さはタイトルホルダーに引けを取らないという「木村神話」が一部のファンの間で囁かれていました。
そして、今年(2019年)の9月にその神話は現実のものとなったのです。
久々のタイトル戦
王位戦の挑戦者決定戦でタイトル通算99期の羽生善治九段を叩きのめした木村一基九段は天才の呼び声高い豊島将之名人・王位への挑戦権を獲得しました。
豊島名人・王位は100年に一人の天才、藤井聡太七段に公式戦で4連勝という驚愕の強さを誇ります。(羽生ですら藤井には2連敗)
「現棋界の最強は豊島か渡辺か?」と巷では議論されています。(私は藤井七段が最強と思いますが・・・)
大方の予想
羽生を倒したところで木村の運も尽き、タイトルを賭けた七番勝負は豊島防衛で幕を下ろすというのが関係者の大方の見解でした。
木村は最悪で4連敗、最高で2勝4敗、順当に行けば、1勝4敗あたりで今回もタイトルには手が届かないだろうというのが戦前の下馬評でした。
シリーズ開幕後、木村2連敗・・・ああ、もうダメだ、と誰もが思いました。しかし、オジサンは諦めませんでした。百折不撓の男にとって勝負はまだこれからです。
木村、巻き返す
木村氏は今までの自分の努力が必ず実ると信じていました。シリーズ開幕前からファンレターも沢山届いていました。
熱狂的な木村ファンの声援を受け、オジサンは燃える闘魂と化し、少しも年齢を感じさせない凄まじい激闘を繰り広げました。

なんと両雄の戦いは3勝3敗のフルセットにもつれこみ、天下分け目の大決戦となる第七局、全国の木村ファンはインターネット中継に釘付けになりました。
王位戦は二日制の死闘です。二日目の夜戦に入ると勝敗の行方が気になって風呂にも入れないファンが続出しました。木村氏を尊敬するファンは汗ばんだ手でスマホを握ったまま、奇跡の瞬間をひたすら待ち続けていました。
「千駄ヶ谷の受け師」の異名をとる挑戦者が若き王者の激しい攻撃を巧みな受けの妙技で凌ぎました。最後は反撃に転じた老雄木村が猛然と襲いかかり、またたくまに豊島陣を受けなしに追い込みました。
ついに奇跡が・・・
豊島投了の瞬間、ニコニコ生放送の画面には「やったー」、「オジサン、おめでとう!」、「こんなにカッコイイ中年は見たことない」など視聴者からの温かいコメントで埋め尽くされ、対局者の姿がほとんど見えなくなってしまったほどでした。
ついに奇跡が起きた! 最盛期をとうに過ぎた解説名人が棋士としての絶頂期真っ只中にいる名人を撃破したのです。
デビューして23年、木村氏は46才になっていました。これは有吉道夫九段の持つ初タイトル獲得の最高齢記録(37才)を大きく塗り替えた歴史的瞬間でもありました。7度目のタイトル挑戦で初戴冠というのも信じ難い大記録です。
悲願のタイトル獲得後、涙を拭う木村王位
報道陣に囲まれた木村氏は「自分はタイトルには縁のない男かもしれないと思いかけた時もあったが、諦めずにやってきてよかった」と嗚咽をこらえながら胸の内を明かし、それを聞いていた全国のファンがもらい泣きしました。
挑み続けた人生
木村氏の執念の前に屈し、タイトルを一つ失った豊島名人ですが、まだ29才。今、行われている竜王戦では挑戦者として広瀬章人竜王(32才)を相手に3勝0敗と追いつめています。恐らくは竜王を奪取して二冠に返り咲くことでしょう。
現在、将棋界のタイトルホルダーはこの他に渡辺 明三冠(35才)、永瀬拓矢二冠(27才)の二人しかいません。いずれも20代、30代の指し盛りの棋士です。
史上最強の棋士とも称される羽生九段(大天才)でさえ、年齢的な衰えに抗しきれず、タイトルマッチになかなか絡めない現状の中、常に自分の力を信じて不可能とも思える目標に挑み続けた46才王位の存在は光り輝きます。
木村一基の名言
別のコラムでも書きましたが、「人は歩みを止めた時、挑戦を諦めた時に年老いていく」(アントニオ猪木の名言)のです。
かつて、私は木村氏のある名言にはっとしたことがあります。
将棋には絶体絶命のように見えて、辛うじて助かっている局面というものがあります。しかし、助かるための一手を指したとしても、それは敗北の瞬間を先送りしただけにすぎず、勝てる可能性は極めて低いという局面。
こういう時、大半の棋士はその一手を指すのはみっともないと考えて潔く投了することが多いのですが、木村氏は恥も外聞もかなぐり捨てて、その一手を指します。
「棋譜が汚れる」(将棋の内容が美しくなくなる)という批判を覚悟の上で、1%か2%しかない勝利の可能性に一縷の望みを託して。そこまでして負けまいとする理由を聞いて、私は息を飲むような感動を覚えました。
「負けと知りつつ、目を覆うような手を指して頑張ることは結構辛く、抵抗がある。でも、その気持ちをなくしてしまったら、きっと坂道を転げ落ちるかのように転落していくんだろう」(木村一基)
今回のタイトル獲得は誰もが躊躇する「目を覆うような手」を指し続けてきた(=勝つことだけにこだわってきた)木村氏に幸運の女神が微笑んだ結果と言えるでしょう。
【2021.3.11追記】翌年、藤井聡太棋聖を挑戦者に迎えた防衛戦で木村は屈辱のストレート負けを喫し、虎の子のタイトルを失った。
しかし、将棋の内容は決して悪くなかった。4局のうち2局は木村に勝機があった。「こう指せば木村の勝ちは動かない」という局面で2回ともその手を見送ってしまったため、時の運は藤井に味方した。
敗戦をふり返るインタビューで木村はそのような未練がましいことを一言も口にせず、「4連敗とは情けない限りです。また出直します」と力強く再起を誓った。
3ヵ月後、木村にリベンジの機会が巡ってきた。舞台はNHK杯争奪将棋トーナメント。両雄は再び相まみえた。藤井が最も得意とする角換わりの戦型を木村は堂々と受けて立ち、終盤、誰もが腰を抜かす馬捨ての鬼手で藤井を下した。
40代後半の年齢で藤井相手にこんな勝ち方のできる棋士が何人いるであろうか。筆者は木村以外に思いつかない。
リヴィエラ倶楽部
佐々木智親

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2021/03/11 (木) [勝負師の魂]

(ジュリアから奪った「近くて遠かったベルト」を抱いて涙ぐむ第15代ワンダー・オブ・スターダム王者、中野たむ)

Prologue
※まずは海殺しX事務局便りに掲載した【海物語】この出目頻出は不調の兆しのCoffee Breakより引用
2021年3月3日、日本武道館にて開催されたスターダム設立10周年記念大会のメインイベント「ワンダー・オブ・スターダム選手権試合」で宿敵、ジュリアを下した中野はついに悲願のシングルベルトを腰に巻いた。
不屈の闘志で絶体絶命のピンチを何度も凌いだ。
どんなにえげつない攻撃を受けても絶対に諦めなかった。
この日のために温存していた秘策、スタイナースクリュードライバーで形勢を完全に逆転させた後、自らが編み出した至高のフィニッシュホールド、トワイライトドリームを炸裂させ、女子プロレス大賞を受賞して波に乗るジュリアを完膚なきまでに打ちのめした。
文句のつけようのない鮮やかな勝利に、会場にいた選手も観客も感涙にむせんだ。中野のこれまでの苦労と人並み外れた根性を知っていたからである。
三十路をとうに過ぎた女のたゆまぬ努力と鍛錬の集積が偉大なる奇跡を生んだ。
年齢的に遅すぎたデビュー、スポーツ歴なし、小柄な体躯という幾重のハンディをものともせず、「自分の限界を自分で決めない」を信条に、ひたすら夢を追いかけた中野にようやく春が訪れた。数え切れない挫折を糧に這い上がった、まさに執念の初戴冠であった・・・
女の決闘
「輝くスターダム・ドリーム」中野たむと「美しき狂気」ジュリア。
近年、急に頭角を現したスターダム(女子プロレス団体)の二人の女子レスラーに今、世間の熱い視線が注がれている。
因縁浅からぬ二人の「最終決着戦」は2021年3月3日、レック presents スターダム10周年記念~ひな祭り ALLSTAR DREAM CINDERELLA~日本武道館大会でワンダー・オブ・スターダム選手権(通称白いベルト)を賭けて行われた。この試合には「敗者髪切り」という過酷な条件が加わった。
この時代錯誤的な試合形式にファンのネガティブな反応も多かったが、蓋を開けてみると、翌日に同じ会場で開催された新日本プロレス(男子プロレス最大手)の「旗揚げ記念日」興行を観客動員数で上回るという快挙を成し遂げた。
女性の坊主頭など誰も見たいとは思わなかった。観客が見たかったのは負けん気の強さでは人後に落ちないこの二人の究極の決闘であった。
一歩も退かぬ睨み合い
決戦の半月前、リング上で睨み合った両雄は例によって「マイク合戦」でも意地の張り合いとなった。
ジュリア「この試合をスターダム、いや女子プロレス史上でもっともやべぇ試合にしてやる!」
中野「ジュリア、私は、もう覚悟は出来てる。だから、今何も言うことはない。ただ、髪切りだけが先行してるこの試合だけど、私は他のどの試合よりも、ジュリアとやべぇ試合を見せる自信がある。他のどのカードにも負けないし、そしてジュリア、あんたにも絶対に負けない!」
(名物となった中野たむとジュリアのマイク合戦)
大一番を控えた選手がリング上で挑発し合うマイク合戦は、常連の客にとって、もはや「お馴染みの光景」となっている。間近に迫った興行のプロモーションを兼ねた演出に慣れ切っている観客は観劇を楽しむ要領で選手の話に耳を傾ける。
しかし、最近の中野とジュリアのやりとりは両者があまりにも真剣すぎて、会場がシーンと静まり返ることが多かった。
マスコミは中野とジュリアの抗争を面白おかしく報道するために、「遺恨」とか「確執」といった憎悪を意味する言葉を使用した。
これほど的外れな表現はない。リング上では敵対していても、両者の間に私怨はない。二人は互いに強さを認め合い、格闘技術を磨き合う「戦友」である。
二人には共通する想いがあった。
ある面は自分とそっくり、ある面は自分と正反対・・・
中野とジュリアは幾多の「衝突」を繰り返しながら、二人とも成長していった。中野がジュリアを強くした。ジュリアも中野を強くした。
一連の抗争を通じて、互いの成長を確かめ合った二人は、いつ頃からか互いに惹かれ合う関係に発展していった。
アイドル時代の苦労
中野たむ(本名・田内友里愛)は高校を卒業後、舞台女優への道を志し、愛知から上京した。はじめはミュージカルなどに出演していたが、所属事務所の意向でアイドルグループ、カタモミ女子のリーダーに抜擢された。
(若かりし頃の中野たむ)
毎日、秋葉原の店舗でお客さんの肩をマッサージして、ついでにCDも売るというコンセプトで始まったこのグループはメジャーデビューを夢見る中野と身の丈に合った活動で着実に稼ぎたい事務所側の意向が対立して長続きはしなかった。
肩もみをしながら客と会話をしてファンを増やし、本来の活動である歌のライブへの集客を目論んだ事務所であったが、次第に肩揉みが中心になってきて中野は焦った。
アイドルにとっては若さが一番の売り物であるのに、明けても暮れても人の肩を揉み続け、非情にも時は流れてゆく。一体自分は何をしているのかと思った。
年齢的に後のない中野は2015年にカタモミ女子を脱退した。心機一転をはかり、名前を本名から芸名の中野たむに改名した。
はじめから芸名のような美しい響きを持つ本名を捨て、ぱっとしない名前に変えたことに周囲は首を傾げたが、中野には大きな夢があった。この名前で日本武道館で公演を行うという夢が。
これを知る人はほとんどいないが、「たむ」というコミカルな名前は夢が多い(多夢)という中野の願望に由来する。常に夢に向かって突っ走る中野の人生はここから始まった。
しかし、相変わらず道は平坦ではなかった。中野は元カタモミ女子のメンバーを誘って、新グループ、「info.m@te-インフォメイト」を立ち上げたが、その活動は一年ももたなかった。
転機となった衝撃体験
2016年の春、中野は振り付け担当者としてアクトレスガールズの活動に関与するようになった。
この新興女子プロレス団体はタレント志願者を募ってレスラーになるための練習をさせ、音楽ライブとプロレスを融合させたイベントを展開していた。
(アイドルを断念してプロレスという禁断の領域に足を踏み入れた中野たむ)
アクトレスガールズとの出逢いが中野をプロレスに目覚めさせた。連日の興行に立ち会っているうちにプロレスの魅力にますますはまっていった。
ふと気がつけば、アクトレスガールズの練習生になっていた。何事もやるからには最高のものを目指す中野は業界最大手のスターダムの試合を見に行った。
僅か15分の試合が一本の完結した映画のように見えた。
プロレスは試合そのものがドラマであり、そこには喜び、悲しみ、笑い、感動などの全ての要素が凝縮されている。
これこそが最高のエンターテイメントであると中野は確信した。
かつて中野は男子プロレスの余興としてリングの上で歌ったこともあったが、プロレスの試合は怖すぎて1分も見ることができなかった。
(美形揃いのアクトレスガールズの選手たち)
ところが、スターダムの試合は違った。特に紫雷イオが繰り出す華麗な技の数々には衝撃を受けた。
「女の子でも鍛えればこんなに凄いことができるんだ!」と中野は言い知れぬ感動を覚え、自分がレスラーになれば、アイドル時代に(いつまでも地下アイドルのままでメジャー路線に転出できず)失望ばかりを与え続けたファンに同じ感動を与えることができると直感した。すると、心がゾクゾクとしてきた。
(米マット界で活躍するスターダムOG、紫雷イオ・・・天才的な運動神経で観客の度肝を抜き、スターダムに繁栄をもたらした最大功労者)
地獄の特訓
プロレスラーになるための練習の厳しさは想像を絶するものであった。いつまでも終わらない練習に息が上がり、唇が紫色に変わり、これ以上やったら気絶してしまうと思っても、休むことさえ許されない。
死ぬかもしれないと思った。しかし、自分で選んだ道である。逃げ出すことはできない。遠のく意識の中で、中野は必死に耐え続けた。夢を諦めず、ネバーギブアップを実行することだけが神が中野に与えた唯一の才能であった。
練習が終わって家に帰ると体中に痛みが走る。極限を超えた疲労が蓄積されて、日常生活すらままならない。
しかし、この苦痛が次第に喜びに変わってきた。そこには進歩の跡があった。
練習を続けていくうちに、ちょっと前まで耐えられなかったことが今では難なくできることに気づいた。ちょっと前まで激痛だった技が今ではそれほど痛くもない。
「筋肉は裏切らない」と中野は思った。
人はすぐに自分を裏切るが、筋肉は絶対に裏切らずに自分を支えてくれる。筋肉が増強していくにつれて、地獄の練習が朝飯前にこなせるようになった自分自身の成長を中野は喜んだ。
アイドル時代は毎日、客の肩を揉み、無為な時間だけが過ぎていった。なんの進歩もない日々だけが明けても暮れても続き、将来のビジョンすら見えてこなかった。
しかし、プロレスの基本的な技をマスターしていく過程で、自分が将来のトップレスラーとして大会場のメインを張り、大観衆の声援を受けて戦う姿がおぼろげながら浮かび始めた。
それは夕暮れ時に遠い彼方の虹を眺めるようなものであったかもしれない。白昼夢にすぎなかったかもしれない。中野は手の届かないところで燦然と輝くあの美しい虹を本気で追いかけようと心に決めた。
固定観念の打破
かくしてレスラーへの転身を遂げた中野はアイドル出身という過去もあり、たちまちマスコミの脚光を浴びるようになった。
しかし、それは飽くまでも意外性という側面に焦点を当てたものであり、取材する側も中野にレスラーとしての実力を求めてはいなかった。
(相手の顎を的確に撃ち抜く中野たむのバイオレットシューティング)
いつの時代も女子プロレスにはアイドルレスラーが存在する。アイドルレスラーの大半は華奢な体で体力も耐久力もなく、飛んだり跳ねたりする見栄えの良い技を中心に試合を組み立てる。
勝ち方も力で相手をねじ伏せるのではなく、一瞬の隙をついた返し技(回転エビ固めや首固めなど)が多い。ファンはアイドルレスラーに本物の強さを求めない。
中野は従来のアイドルレスラーの常識を覆すことを狙っていた。
見かけ倒しの技を嫌う中野は芸術性に富みながらも強烈なダメージを与えることのできる技のみを習得した。のちに中野のオハコとなるタイガースープレックスには中野による独自の改良が加えられている。
(中野たむの芸術的なタイガースープレックスは高角度に加え、腕のロックが完璧であるため効果抜群)
持ち前の体の柔軟さを生かして、中野は相手の体を高い所まで持ち上げてから勢いよく後頭部をマットに叩きつける。それには頑強な腹筋と足腰が要求される。中野は日々の筋トレを決して怠らなかった。
(オフの日も地道な努力を怠らない中野たむ)
いつからだって・・・
中野は「プロレスは人生の集大成であり、今までのあらゆる経験を試合に反映させることができる」と語っていた。
舞台劇をやっていた頃、役作りのために中国武術の型を学んだ経験が中野にはあった。その時に身につけたフォームがスピンキックをはじめとする中野の蹴り技の基礎となった。
(ライバルのジュリアにスピンキックを浴びせる中野たむ)
28歳でレスラーに転向した中野にとって、このデビュー年齢は大きなハンディとなっていた。中野のブレークを予測する者は皆無に近かったが、中野は若いレスラーにはない自分の人生経験の厚みが生かせる時が来る、と信じていた。
野心家の中野は「世の中には叶えられない夢が多いが、私は不可能を可能に変える奇跡をプロレスで起こす」と豪語した。
冷笑する周囲に対して、「夢を追いかけるのはいつからだって遅くない!」と名言を吐いた。
他団体に殴り込み
デビュー以降、年齢的なハンディを克服して着実に力をつけてきた中野は更なる飛翔を求めて他団体にも参戦するようになった。その中でも大仁田 厚が立ち上げたインディーズ団体、FMWの試合に出場したのは危険な賭けであった。
(「涙のカリスマ」大仁田 厚)
大仁田は電流爆破マッチをはじめとする「邪道プロレス」を売り物にしてメジャー団体と張り合っていた。
電流バットのような凶器を公然と使用する邪道プロレスは世間から蔑視されがちであるが、この団体に参戦するレスラーは命懸けで戦っている。危険度においては通常のプロレスとは比較にならない。
大仁田にかわいがられた中野は2017年の6月に大仁田と組んで自主興行を開催した。その時、電流爆破の犠牲となった。意識不明に陥った中野は救急車で病院に緊急搬送された。
(瀕死の状態で救急車に乗せられた中野たむ)
自信の源
目を覚ました時に最初に見えたものは病院の白い天井であった。徐々に記憶を取り戻した中野は「まだ生きていたんだ」と思った。
普通の女性であればプロレスをやめてしまうところであるが、強気の中野は違った。
「もはや怖いものは何もない」と思った。今後、どんな技を食らおうが、電流爆破マッチの被爆と比べれば恐るるに足らずだ。厭わしい経験が中野の急成長の引き金となった。
又、この事故は中野の知名度を上げた。機が熟したと見た中野はフリーランスの身となり、一世一代の勝負に出た。
辿り着いた終着駅
中野の行動力には定評がある。翌月に行われたスターダムの興行を視察した中野は首脳陣と面会し、参戦許可を願い出た。
知名度はあっても、真の実力が未知数であった中野にスターダムは査定マッチを組んだ。この審査にパスした中野は定期参戦を許された。
そして2017年11月、「試用期間」を経て、中野のスターダム入団が決まった。
戦いの場を求めて放浪した中野の旅はついに終着の駅に辿り着いた。
近年、急に台頭した総合格闘技ブームの煽りを受け、多くのファンを奪われてしまったプロレス界。「プロレス冬の時代」と呼ばれて久しい。
ましてや女子プロレスに至っては、小さな会場で数十人規模の興行が打てれば良い方である。武道館でメインを張るためには、女子プロ最大手、スターダムに乗り込む必要があった。
(スターダム入団記者会見で中野たむは大見得を切った)
入団発表のプレスインタビューで中野は「スターダムの頂点、女子プロレスの頂点を目指す」、「唯一無二の輝きを放つ星になる」と声高らかに宣言した。
可愛らしい顔をして大言壮語する中野を「口だけは達者」と笑う者も少なくなかったが、中野は本気であった・・・
謎だらけの過去
ジュリアも中野と似たような波乱万丈の道のりを歩んできた。
ジュリア(本名・松戸グロリア英美)はイタリア人の父と日本人の母との間に生まれた。彼女の生い立ちはほとんど公になっていない。
(美貌に似合わぬ毒舌で人気沸騰のジュリア)
本人の口から過去が語られることは滅多にない。ポジティブ思考のジュリアにとって、過去の出来事はなんの意味も持たない。
今が輝いていればよい。これこそがジュリアの人生観の根底をなすものであり、過去の出来事の積み重ねによって今があり、今の努力が将来に花開くと考える中野とは対照的である。
ジュリアには才気煥発という眩しさがあった。
キザな立ち居振る舞い、毒舌を基調とした会話運び、どれもサマになっていて、人気レスラーとしての商品価値を高めている。
(「クールな女」のキャラクターで売るジュリア)
自己プロデュース力にかけてはアイドル時代に培ったノウハウの強みで中野もジュリアに引けを取らないが、中野は記者会見やマイクパフォーマンスで語る事柄に関して、事前に入念な計画を立てるタイプである。
難しい言葉や凝った表現を駆使してファンを心酔させるが、不測の事態に直面した時のアドリブが弱い。続ける言葉が思いつかなくなったりするところが可愛らしくもあるが、トークの力では到底ジュリアには敵わない。
ジュリアは中野のように練りに練ったことを言うのではなく、思ったことを赤裸々に語るだけであり、声色と口調だけ業務用に調整している。
(全身からオーラを放つジュリア)
観客やマスコミの前では、普段よりも低い声で男勝りの言葉を遣うが、大半がアドリブであるため、如何なる状況でも当意即妙の台詞で場を沸かすことができる。
(ジュリアの出身地、ロンドン・・・ハーフであることを理由で子供の頃はイジメに遭ったと言われるが、それが彼女の反骨精神の土台になったのかもしれない)
キャバクラ出身
世間に知られているジュリアの経歴は元キャバクラ嬢ということだけである。
学歴(中卒)には恵まれなくても、知力と容姿には恵まれていた。
キャバクラ時代のジュリアは70万円前後の月収を稼いでいたが、それはアイドル時代の中野の月収とは比較にならない高額である。
しかし、ジュリアほど性格的にキャバクラ嬢に向かない女はいない。
言いたいことを思いのままに語り、「他人は他人、自分は自分」と常に我が道を行くジュリアにとって、客に合わせて会話を運び、卑屈な態度でご機嫌取りに徹しなければならないキャバクラの仕事は大きな苦痛になっていたものと思われる。
巧みな会話術を身につけたことだけが今の仕事に生かせる収穫であったかもしれないが、それ以外にキャバクラの経験がプロレスに役立ったことは何一つないかもしれない。
Going my wayを貫き通すいう点では中野の生きざまにも通じるものがあるが、今のジュリアは中野ほどにはアンチファンを作らない。
中野は三十路を超えてからも「宇宙一かわいいアイドルレスラー」と自称して、一部の人たちの不興を買っている。熱狂的なファンの多い中野の方針は一貫している。
万人に愛されることを望まず、自分を支持するファンと自分をけなすアンチファンがネット上で論争でもして盛り上がれば本望であると達観しているのである。ジュリア同様、中野も頭が切れる。
度胸が据わっているという共通点もある。ジュリアは見かけ通りに度胸があり、中野は見かけによらず度胸がある。
(コーナーポスト上で激しく殴り合うジュリアと中野たむ・・・怖いもの知らずだ)
人生の分岐点
ジュリアはいつまでもキャバクラで稼げるほど世の中が甘くないことを知っていた。
年齢が命のアイドル界で挫折を重ね、焦燥感を募らせていた中野と同じように、ジュリアもいずれは水商売から足を洗わなければならないと思っていた。
そんなジュリアに突然の転機が訪れる。ある日、お店で知り合った客に誘われ、プロレスを観戦したことが彼女の人生を大きく変えた。
ジュリアはたちまちプロレスの魅力に引き込まれ、身銭を切ってでも会場に足を運ぶようになった。
(卑屈にならずにやりたいことが思う存分できるプロレスはジュリアの目には「夢の舞台」に見えた)
試合のDVDも沢山買い占めた。そして、アイスリボン(女子プロレス団体)が運営するプロレスサークルに参加するようになり、プロレスこそが自分の天職であると確信したジュリアはアイスリボンの練習生になった。
修行中の修羅場
一般に出回っているジュリアの経歴にはキャバクラを辞めてからプロレスに入門したことになっている。これは厳密には正しくない。生活上の必要からキャバクラの仕事とプロレスの練習を掛け持ちしていた時期があったからである。
入門して何よりも苦しかったのは練習であった。これも中野の過去とダブるが、ジュリアには別の事情も絡んでいた。
キャバクラでの勤務を終えて、朝の5時か6時に帰宅する。シャワーを浴びた後に1時間程度の仮眠をとり、自宅から2時間近くもかかる道場に向かわなければならない。
(道場で日夜、練習に励むアイスリボンの練習生)
意識朦朧の状態でハードな練習をこなしたジュリアはかつての中野と同じように「死ぬかもしれない」と思った。
見え始めた光
しかし、負けず嫌いのジュリアは弱音を吐くことなく厳しい練習を堅忍不抜の精神で乗り切った。蜘蛛の巣という技(相手に飛びついて、自分の足をマットにつけずに卍固めをかける)を覚えてからは夢中になってこの技を繰り返し練習した。
道場での練習が急に楽しくなった。好きでもない客にも色気をふりまかなければならないキャバクラとは異なり、自分を飾らず、ありのままの姿で、志を同じくする者たちと共に、純粋で美しい汗が流せるこの場所をジュリアは愛した。
(ジャングル叫女に蜘蛛の巣を決めるジュリア)
それは男性の性欲が渦巻くキャバクラとはかけ離れた美しい世界であった。もうキャバクラにはなんの未練もなかった。
収入は激減したが、ジュリアの瞳の奥には洋々たる未来の青写真があった。
再び試練が
2017年の10月、修行を終えたジュリアは念願のデビューを果たす。しかし、決して幸先の良いスタートではなかった。
タッグマッチではパートナーの先輩レスラーのお陰で何度も勝つことができたが、ジュリアがフィニッシュを決めることはなかった。言わずもがな、シングルマッチでは誰にも勝てなかった。
ジュリアがシングル初勝利を飾ったのはデビューから10ヵ月後、2018年の9月のことであった。しかし、それ以降も勝ったり負けたりの泣かず飛ばずの期間がしばらく続いた。
ついにスターダムへ
ジュリアも中野と同じように、デビュー直後にルックスの良さからたちまち人気者になった。しかし、当初は人気先行型のレスラーであったことは否めない。
もどかしい日々が続いたが、2019年の春あたりから徐々に実力が人気に追いつき始めた。
同年の10月、ジュリアは清水の舞台から飛び降りた。2年前の中野のように、ジュリアも突然、スターダム参戦を表明した。
仕事でひと旗揚げたいと思う人が地方から大都市に移住するように、天下取りを狙う女子レスラーも戦いの場を自然とスターダムに求めてくる。
エンジン全開
しかし、ジュリアはアイスリボンとの契約上の問題がきちんと処理されておらず、強烈なバッシングを浴びることになる。
「お騒がせ女」という不名誉な烙印まで押されて窮地に追い込まれたジュリアを救ったのはスターダムの未来のエース候補、木村 花であった。
(ジュリアと木村花の関係及び木村花の知られざるエピソードに関しては、一番下の<おすすめコラム>参照)
(在りし日の木村花)
ヒール(悪役)ではあっても情にもろい木村は彼女流の方法でバッシングに苦しむジュリアに救いの手を差し伸べた。(詳細はおすすめコラム参照)
これがジュリアの運命を好転させた。マスコミやプロレスファンの非難がジュリアの体内で燃料と化し、彼女のエンジンはフル回転を始めた。
めざましい活躍
木村とジュリアのハーフ美女同士の抗争が始まると、前に前にと打って出るジュリアのアグレッシブな試合スタイルはファンの共感を呼び、ジュリアはファンの期待に応えて躍進を続けた。
他団体で活躍していた舞華、朱里、ひめか、なつぽい(万喜なつみ)をスターダムに呼び込み、自らがリーダーを務めるユニット、ドンナ・デル・モンドを結成したジュリアは一躍、スターダムの中心的存在となった。
(ドンナ・デル・モンド・・・ジュリア軍)
2020年から2021年の初頭にかけて、ジュリアはリングを席巻した。
・シンデレラトーナメント優勝
・ワンダー・オブ・スターダム選手権(白いベルト)獲得
・タイトル防衛を続けてV6達成
2019年の暮れに強烈なバッシングを浴びてスターダムに移籍したジュリアは翌年の八面六臂の活躍が評価され、女子プロレス大賞(東京スポーツ)と女子プロレスグランプリ(週刊プロレス)の二つをダブル受賞する離れ業をやってのけた。
(デビュー3年で最高の栄冠を手にしたジュリア)
大激震
ジュリアのスターダム電撃入団は他の選手にとっては震災級の天変地異であった。
それまでの実績からして大物レスラーとは言い難い「よそ者」のジュリアが先輩レスラーをごぼう抜きして一躍トップに躍り出て、ありとあらゆるものを全てかっさらってしまったからである。
(スターダム一期生にして団体エースの岩谷麻優はジュリアとの試合で苦杯を喫した)
生え抜きのレスラーたちは皆一様に気分を害した。一般企業にたとえるならば、幹部候補生として新卒採用された社員が頑張っている中、突然、同年代の社員が中途採用で入社してきて部長になってしまったようなものである。
(大型ルーキーとして注目を集めた林下詩美の存在もジュリアの入団で霞んでしまった)
中野はスターダムの生え抜きではないが、入団後2年が経過していて、すでに会社に溶け込んでいた。記者会見の司会や動画のナレーターなど多方面で活躍する中野は会社への貢献度も高く、もはや生え抜きの同僚たちと同じような立場にあった。
(生え抜きであることに強いこだわりを持つ渡辺桃はよそ者が大嫌い)
思わぬ珍客(?)の出現に、中野も平穏な気持ちではいられなくなった。
SNSでバトル勃発
2020年4月、新型コロナウイルスによる緊急事態宣言が発令され、通常の興行が打てなくなったスターダムはファンとの絆を保つため、所属選手たちによるトークライブ(YouTubeを使った生中継)を開催した。
スターダムの選手は幾つかのユニット(グループ)に分かれて活動している。会社は曜日ごとに担当ユニットを割り当て、選手たちは自分たちが当番の時に、自宅からライブに出演して、楽しいお喋りでファンと交流していた。
(岩谷麻優を「商品部長」に見立てた商品開発会議という名のお喋り)
ある日、ジュリア率いるドンナ・デル・モンドがライブ配信を行っている時に唐突にジュリアが中野のモノマネを披露した。
(素顔は茶目っ気たっぷりのジュリア)
ジュリアは不自然に可愛いらしい声で「宇宙一かわいいアイドルレスラー中野たむです!」と言って中野をからかった。
少しも似てはいなかったが、ジュリアのひょうきんな一面が見られて面白かった。他の出演者(朱里と舞華)は一瞬、何が起こったのかわからず、キョトンとしていた。
何秒か遅れてから朱里も舞華も笑ったが、「ジュリアの頭に一体何が起こったのか?」という反応を示した。まさに、突然の乱心(?)であった。
(運命の糸に操られ、二人の抗争が始まった)
それまでにジュリアと中野との間にはなんの接点もなかった。
ジュリアは自分のモノマネをツイッター上に公開して、中野を挑発した。「今度、中野たむ選手権(中野のモノマネを皆で競うコンテスト)をやるので審査員を頼む」というような内容であった。
いきなり、なんの脈絡もなくジュリアにからかわれた中野は立腹したが、負けじと皮肉を言ったりしているうちに、この二人は頻繁に舌戦を繰り広げる間柄になった。
このバトルが抱腹絶倒であったため、ファンは一日一回、二人のツイッターをチェックするのが日課になってしまった。
見ていて決して悪いものではなかった。むしろ微笑ましいというか、クールなジュリアの意外な一面(お茶目)が見られたし、キュートな中野の真の姿(ほとばしる闘志)を知ることができた。
二人の茶化し合いや異なる人生観、プロレス観の衝突は読者を時に笑わせ、時に唸らせた。何故、ジュリアは中野に噛み付いたのか?
小学校でやんちゃな男子児童が好きな女子のスカートめくりをしてからかう光景がふと目に浮かんだ。明らかにジュリアは中野の存在を意識していた。
悪ガキが意中の女の子を追いかけ回すように、ジュリアの悪乗りが止まらなくなった。
その頃、ファンサービスに熱心な中野は短い動画を作ってはツイッターで発信していた。手に負えないやんちゃなジュリアは中野の「動画の真似」まで始めるようになった。
中野が自分のメイクアップシーンの動画を公開すれば、ジュリアも同じような動画を作って「応戦」した。(厳密にはジュリアが一方的に中野に絡んでいただけ)
目立ちたがり屋の中野はジュリアの一連の行動に、表面上は煙たがっていたが、内心では歓迎していたに違いない。舌戦はますますエスカレートしていった。
挙句の果てに、ジュリアは中野のヘアスタイルまで真似た。
(中野たむの好きなパンダのヘアクリップまで購入して中野をからかったジュリア・・・宝塚の男装の麗人のように見える)
これに対して中野は「ジュリア、ごめん、スターダムはね、可愛くて美しくてかっこいい女子プロレス団体だから、女性しか所属出来ないんだよ。出てって貰える?」と返して一本取った。
痛ましい出来事
2020年5月23日、スターダム史上最大の惨事が発生した。
ジュリアにとっては最高のライバルでもあり、自分に居場所を与えてくれた恩人でもある木村 花が自ら尊い命を絶ったのである。
これを機にスターダムはトークライブを当分の間、中止すると発表した。選手たちのツイッターも楽しい話題で盛り上がることができなくなり、ジュリアVSタムのSNSバトルも「休戦」となった。
(スターダムの統括責任者、ロッシー小川のツイッターより)
ジュリアの傷心は見るに忍びないものであった。彼女は持ち前のキザな言い回しで木村への哀悼の意を表していた。一時期は同じユニットに属していて、木村と交流のあった中野も気を取り乱し、悲嘆に暮れていた。
ジュリアも中野も言動の節々に優しい人柄が垣間見える。
かつて、将棋の中村太地七段が興味深いことを言っていた。
「棋士は優しい性格の人が多いですよ。将棋に勝つためには相手の嫌がる手を指さなければなりません。盤上でいつも人に嫌がらせをしている反動で盤を離れれば優しくなってしまうのかもしれませんね。罪滅ぼしとでも言うか・・・」
レスラーも勝つためには絶えず相手が嫌がる攻撃を仕掛けなければならない。その反動でリングから降りた後は優しくなれるのであろうか。
(甘いマスクで人気の中村七段)
主力選手を失ったスターダムは重苦しい空気の中で再出発をすることになった。折りしも緊急事態宣言が解除され、興行も再開された。
沈痛な空気は依然として残っていたが、「花ちゃんの分まで頑張らなければ」と全選手が組織再生のために全力疾走を始めた。
そのトップランナーはジュリアであった。春の祭典、シンデレラトーナメントを制したジュリアは「時の人」になっていた。
白いベルトの争奪戦
実はそのちょっと前にもうひとつの激震がスターダムを襲っていた。白いベルト(ワンダー・オブ・スターダム)のチャンピオン、星輝ありさにドクターストップがかかり、引退を余儀なくされたのである。スターダムは一ヶ月で二人の大物レスラーを失った。
(ワンダー・オブ・スターダム王者のまま引退した星輝ありさ)
星輝の引退、ベルト返上によって空位となったワンダー・オブ・スターダムの新チャンピオンを決める戦いが始まった。
当初は刀羅ナツコが星輝のベルトに挑戦する段取りであったが、星輝の体調不良がおさまらず、二人のタイトルマッチが流れてしまった経緯があった。
(素顔は意外と美人な刀羅ナツコ)
すでに挑戦権を得ていた刀羅とシンデレラトーナメント優勝でトップの一角に食い込んだジュリアの二人で新王者決定戦を行うのが妥当と思われたが、そこに突如として中野が割り込んできた。
「私には前王者、星輝ありさとの約束がある」と中野は言った。
約束と言っても、それは引退を前に星輝が「このベルトはタムちゃんが巻いてね」と個人的な会話を中野と交わしただけである。中野にとって星輝は「ドリームシャイン」という名のタッグチームを組む盟友であった。
そんな個人的なやりとりは無視してもよさそうなものだが、プロレスの世界では、往々にしてこのようなわがままが罷り通る。
中野に乗じて小波という伏兵も現れた。
(「女寝業師」の異名をとる小波)
小波はスターダムでは珍しい関節技の名手である。彼女の必殺技、トライアングルランサーは完璧に決まれば、超一流のレスラーでもギブアップしない限り、腕が脱臼してしまう。滅多にタップしない中野もかつてこの技に屈した苦い過去を持つ。
(小波の必殺トライアングルランサー)
ワンダー・オブ・スターダムのベルトはこの4人のトーナメントで争われることになった。
一回戦でジュリアは大方の予想通り、小波のねちっこい攻撃に苦しめられたが、持ち前の粘りでそれを凌ぎ熱戦を制した。中野は試合開始のゴングが鳴る前に刀羅の奇襲を受け、予想外の苦戦を強いられたが、最後はスクールボーイ(一瞬の返し技)で辛勝した。
奇しくもSNSで茶化し合いを続けてきたジュリアと中野との間で新王者決定戦が行われる運びとなった。
水着乱闘
実はトーナメント一回戦を前に不穏な出来事があった。
(撮影中の中野たむにからみつくジュリア)
7月14日、スターダムでは都内某所で選手たちの水着撮影会を開催していた。各選手が試合では使用しないビキニ姿などでカメラマンの撮影に応じていたが、中野の撮影中に、いきなりジュリアがやってきて「おまえ、乳出てるぞ」とからんできた。
無視して撮影を続ける中野にジュリアがからみ続け、中野の体を突き飛ばした。「何すんだよ!」と中野が激怒し、二人は水着姿で乱闘を始めた。
(実像は礼儀正しいジュリア・・・自分の意思でこんな非常識なことをするとは思えない)
これが「やらせ」であるという確証はないが、恐らくは会社側が仕組んだ話題作りである。(事前に中野には知らせていなかったように思われるが・・・) 多くのカメラマンがいる場所でこのような事件が起きた場合、その90パーセント以上は仕組まれたものと見てよい。
この類の演出はプロレスにはつきものである。やらせにしてはやけに長い乱闘であり、中野が体内数箇所で出血するという想定外の成り行きとなったが、最後は関係者が割って入り、なんとか二人のいざこざを終わらせた。
翌日のメディアには「水着乱闘」、「ビキニ乱闘」といった刺激的な文字が躍り、会社の思惑通り、二人の戦いに世間の注目が集まった。
プロレス哲学の相克
新王者決定トーナメントの一回戦を突破した中野とジュリアは7月26日、後楽園ホールにて行われるベルトのかかった決勝に駒を進めた。
対戦前、二人はプロレス観をめぐるイデオロギー闘争を展開していた。
中野のファンは実力者でありながら今までシングルのベルトに縁のなかった中野にチャンピオンになってもらいたいという夢を抱いていた。当の中野はベルトには全く興味がなく、ひたすら強くなることだけを望んでいた。
しかし、そのような自分の志向がファンを悲しませていることに気づいた。
中野は自分を後継者に指名した星輝との約束を果たすため、そして、ファンの願いを叶えるために、ベルトの獲得に強い意欲を示した。
(「星輝打倒」の志を捨てぬまま星輝とのタッグを結成した中野たむ・・・表向きは星輝と仲の悪いふりをしていたが、星輝にとって「心の支え」となるかけがえのない友であった)
「私は皆の思いを背負ってこの一戦に臨む」と宣言した中野をジュリアは嘲笑い、「プロレスは一人だけで戦うものだ」と中野のプロレス観を真っ向から否定した。
リアリストのジュリアの冷めた態度にロマンティストの中野は激昂した。「おまえにだけは絶対にベルトを渡さない」と決死の覚悟を表明し、運命を分ける決戦のリングに上がった。
運命の初対決
試合は両者の意地のぶつかり合いとなり、スターダムでは珍しい長丁場の戦いになった。
(中野たむに受身の取れないリストロック式の危険なバックドロップを決めるジュリア)
最後はジュリアのアームブリーカー(ビアンカ)が炸裂し、中野の動きを完全に止めた。
中野は意地でもギブアップしなかったが、半失神状態の中野を見て、これ以上は無理と判断したレフェリーが試合を止め、ジュリアのTKO勝ちとなった。試合時間28分27秒。時間切れ(30分)直前の「薄氷を踏む勝利」であった。
(中野たむとの死闘を制し、第14代ワンダー・オブ・スターダム王者に君臨したジュリア)
凄まじい激闘に観客は言葉を失った。勝ったジュリアは奢り高ぶることなく、中野の根性を認めた。普通のレスラーであれば10秒もしないうちにギブアップする技をかけられながら最後までその言葉を口にしなかった中野の気迫にジュリアは圧倒された。
「おまえの背負っているものがスゲーわかった気がするよ」
前言を撤回するようなジュリアの言葉に中野はしばし感慨に耽った。
幾ばくかの親愛の情を込めて、「またやろうぜ」とジュリアが言った時、この二人は誰もが認める最高のライバルとなった。
木村花の急逝でライバルを失ったジュリアであったが、中野も同じような境遇にいた。星輝とはタッグを組む関係ではあったが、中野の目標は飽くまでも星輝を負かすことであった。アイドルの仮面を被っている中野であるが、その正体は「勝負師」である。
星輝の引退によって、中野も目標を見失った。ジュリアにとっても中野にとっても、新ライバルとの出逢いは熱い戦いに飢えた自己の渇望を満たす天からの贈り物であった・・・
決戦再び
両者の二度目の対決は思いのほか早く実現した。
夏の祭典、ファイブ・スター・グランプリでジュリアと中野は再び相まみえることになったのである。
9月13日、西鉄ホールで両者は一進一退の攻防を繰り広げた。しかし、中野の事前研究がジュリアのそれを上回った。
中野は敗れるたびに敗因を分析をして弱点の克服に努める人である。
彼女のツイッターやインスタを見て、30代になっても「ぶりっ子」をしている寒い女という印象を抱く人は少なくない。
(容姿からは「努力」や「強さ」が全く伝わらない中野たむ)
しかし、それはアイドルという仮面に騙されている人の浅はかな観察である。仮面の下に隠れる素顔は七転八起の努力の人である。このことをファンの大半は見抜いている。
ジュリアの強さの秘密はグロリアスドライバーの威力にある。
(ジュリアのグロリアスドライバーを食らえば苦戦は必至)
この技をかけた後にフォールに入る。弱いレスラーであればそこで終わってしまう。なんとかフォールを免れても、その後にバリエーション豊かなサブミッションホールドが待ち受けている。強烈なダメージが残っている状態で逃れることは難しい。
中野はグロリアスドライバー封じの対策を講じた上で再戦に挑んだ。
中野、完勝で雪辱
予想通り、ジュリアは勝負どころでグロリアスドライバーを仕掛けてきた。
中野は強靭な足腰の力で踏ん張り、ジュリアとの力比べに持ち込み、ジュリアの力に一瞬の弛緩が生じた隙に素早く技をふりほどき、スピンキックをジュリアの頬にヒットさせた。中野にしかできない鮮やかな切り返しであった。
息を吹き返した中野は波状攻撃に出て、ジュリアに粘る余地を与えず、タイガースープレックスの2連発でスリーカウントを奪った。
(二度目の対決はジュリアの完敗)
中野は勝ち名乗りを受けた後、マイクを持って「これで一勝一敗の五分。10月3日は最終決着戦だ!」とジュリアに宣戦布告をした。
中野は会社を口説き落とし、ジュリアのベルトに挑戦する許可をすでに得ていた。スターダムではタイトルマッチでぶつかったばかりの選手を同じタイトルマッチですぐには再戦させない。しかし、中野の熱意に折れた形で例外を許し、すでに両者による二度目のタイトルマッチが発表されていた。
プロテイン合戦
中野とジュリアの天下分け目の一戦を前にスターダムではオンライン記者会見をセッティングした。スターダムの記者会見は半分ショーである。何かが起こるという予感があったが、ここでも妙な茶番劇が待っていた。
(大決戦を前にしてプロテインをかけ合う二人)
通常、タイトルマッチの記者会見では対戦する二人の間にベルトが置かれる。デスクの上にはそのベルトがない。運営側の手落ちであるとは到底考えられない。
いつも準備していることをこの日に限って忘れてしまうということは有り得ない。ベルトがないという時点でその後に始まる二人のやりとりが「やらせ」であることがわかる。
最初は中野が「これってタイトルマッチですよね。ベルトは?」とジュリアに質問する。それに対してジュリアがいろいろと嫌味を言った後に「そこにベルトあるから持ってこいよ」、「プロテインも」と中野に命じる。中野はプロテインだけを持ってきて、その粉末をあろうことかジュリアの頭にふりかける。ジュリアは「おまえ、いい度胸してるな」と言って、今度はジュリアが中野にプロテインをふりかける・・・という事の顛末に視聴者は「なんだ、このコントは!?」は失笑した。
この二人の真剣な戦いに人々はこのような無用の演出を望んでいない。水着乱闘もしかり。スターダムにしては珍しい失策であった。
雪女のように真っ白になった中野の姿を見て、ファンは「タムちゃん、かわいい」と中野が最も喜ぶ賛辞を送った。

ジュリア、初防衛成る
10月3日、横浜武道館で「第三戦」のゴングが鳴った。ジュリアは前回の敗戦を反省し、慎重な試合運びを見せた。中野もいつものように万全の対策を施した上で試合に臨んだが、今回はジュリアの努力に軍配が上がった。
ジュリアはこの試合を前に「たむとの試合は激しすぎて、このまま行けばどちらかが死んでしまうかもしれない」と語っていた。自分が死ぬわけにはいかず、かといって相手を殺してしまうこともできない。
ジュリアは難問に見舞われた。
無事に試合を終わらせるためには自分の技の精度を上げ、凄惨な事態が生じる前に決着をつけるしかない。この思いがジュリアの技に磨きをかける効果をもたらした。
序盤、中盤とも形勢は中野に分があった。タイトル奪取に執念を燃やす中野は万華鏡のように変幻自在に技を繰り出してゆく。しかし、そこからフィニッシュにつなげることができない。サッカーで言えば、敵陣のゴール近くまでは行けてもシュートが決まらないという苦々しい局面が幾度となくあった。
流麗典雅なる中野の攻めにジュリアも懸命に応戦するが、序中盤の技の数では中野がジュリアを引き離している。オーソドックスなレスリングを技の主体とするジュリアに対し、キックを多用する中野は瞬時にリードを奪いやすい。
中野は試合運びの巧さにおいても一流を極める。状況に応じて、適切な技を選び、確実にダメージを与える。
男子プロレスのジュニアヘビー級選手や女子レスラー全般に共通して言えることがある。勝つことよりも華麗な技を出すことだけに熱心・・・これだからプロレスは他の格闘技ファンに笑われる。
高度な技を披露したいがために、強引にその技が使用可能な展開に誘導したり、試合中に一つでも多くの技を出そうとする選手は単なるパフォーマーである。
彼らの試合は「技の展示会」にすぎない。このような安っぽいプロレスを中野は好まない。
中野のプロレスは総合格闘技的なスタイルではないが、プロレスの枠内で徹底的に合理性を追求する。
中野の技は美しいが、相応の効果を伴うものばかりであり、多彩な技をいたずらに乱発することはない。
(膝十字固めのような渋い技も使う中野たむ)
中野は如何なる強敵と対戦しても必ず接戦に持ち込むことができる。それは中野の使用する技が見かけ倒しのものではないことを如実に物語っている。
序中盤では中野にリードを奪われやすいジュリアであるが、フィニッシュにつながる終盤の技の数では中野に勝る。それらの技は相手に余力がある状態ではなかなか決まらないが、相手のスタミナの消耗が激しくなってくると本領を発揮する。
第三戦の勝敗を決定的なものにした技は初戦でも見せたジュリアのアームブリーカー(ビアンカ)であった。完璧に決まっていたが、またしても中野はギブアップしなかった。恐るべき精神力、そしてこの根性!
(リング中央で完璧に決まった「複合関節技」・・・この絶望的な状況でも中野たむは諦めなかった)
両腕、上半身の自由が完全に奪われた中野に唯一可能な抵抗は足をばたつかせることだけであった。激痛を堪えながら、中野はもがき続けた。しかし、ポジションが悪くロープは遠い。
「もう十分だ。ジュリア、やめてくれ・・・」
観客の心にこだまする悲痛な叫びが聞こえてくるように感じられた。それでもジュリアは攻撃の手を緩めない。徐々に中野の目が虚ろになってきた。レフェリーは試合を止める準備に入っているが、信じ難いことに、中野はじわじわとロープに近づいている。
ロープブレークに持ち込むためには、脚力だけで相手の重い体を引きずりながら自分の体をロープに近寄せなければならない。莫大なエネルギーを消耗するこの難作業を、打ちひしがれた肉体で、しかも激痛に耐えながら行わなければならない。常人ならばやる気さえ起こらない、気が遠くなるような脱出方法に中野は挑んでいた・・・
観客は目を覆った。見ている方が辛くなる。
ジュリアが好きな(?)村山大値レフェリーは今すぐにでもストップをかけてジュリアの勝ちにしたかったに違いない。しかし、まだ中野の体が動いている以上、それもできない。
ついに中野の足がロープにかかった。この奇跡の瞬間を見ることができただけでも観客は十分に幸せであった。
「なんて凄い女なんだ!」
ジュリアも観客もそう思った。しかし、勝負の行方は誰の目にも明らかであった。
悶え苦しむ時間があまりにも長すぎた。スタミナを燃焼し尽くしてしまった中野に、もはや勝機はなかった。もうジュリアの技を迎撃する力はない。一発目のグロリアスドライバーは虚勢を張ってカウントワンで跳ね返したが、二発目を返すことはできなかった。
ジュリア、タイトル防衛!
(試合後、「私がまた挑戦するまでそのベルトを守り続けてね。約束してくる?」と指切りげんまんをすると見せかけて「あっかんべー」というオチに観客爆笑)
バックステージで報道陣に囲まれたジュリアは「こんなにやり合えた女ははじめて。タムのお陰で私は強くなれたよ」という短いコメントだけ残して姿を消した。
もう一度チャンスを
ベルトは中野から遠ざかった。さすがに「もう一回やらせろ」と会社に泣きつくことはできない。挑戦者に相応しい選手は他にもいくらでもいる。会社が中野だけを優遇すれば他の選手の顰蹙を買ってしまう。
再び自分に挑戦権が回ってくるまでは、ジュリアに全ての挑戦者を退けてもらいたいと中野は願った。星輝ありさを負かす夢がついえた中野はジュリアしか眼中になかった。
「神よ、私にもう一度チャンスを・・・」
ジュリアとの4度目のシングル対決の実現を祈る日々が続いた。
明暗くっきり
2020年の活躍でジュリアは二つの栄えある賞を受賞し、両手に花の栄光に輝いた。
中野は人々の記憶に強烈な足跡を残したものの、シングルベルト獲得、公式戦優勝といった記録は一つも残すことができなかった。
(シンデレラトーナメントの結果・・・2020年の中野は実力不相応の戦績に終わった)
実力的には同格のジュリアが自分の欲しいものを全て持っていってしまった。この差は一体どこから来るのか? 悶々とした日々を過ごしながら中野は考え続けた・・・





中野の期待通り、ジュリアはワンダー・オブ・スターダムの防衛を順調に続けた。対朱里戦の時間切れ引き分け防衛を除けば、どの試合もジュリアの圧勝であった。挑戦資格を満たすレスラーの全てがジュリアの軍門に下った。
(誰もが認める実力派、朱里)
「時は来た」と中野は思った。
女の命を懸けて
中野はリング上でジュリアへの再挑戦を執拗に迫るようになった。しつこい中野にジュリアはファンを喜ばせるアイデアを持ってくるように命じた。
2月6日の新宿大会でも二人はリング上でやり合った。
ジュリア「あんたさ、なんか面白いこと思いつきましたか? 考えてきましたか?」
中野「面白いこと?」
ジュリア「おまえがなんでもやってやる、そう言ったよな? なあ、私は何も怖くないよ。私はプロレスに人生懸けてるからな。あたりめえだけどな」
中野「私だって人生懸けてやってるんだよ。だから、あんたにつき合って水着乱闘もしたし、プロテインだってぶっかけられてやったでしょ?」
観客は爆笑。水着乱闘、プロテイン合戦がやらせであることをばらしているようなものである。先にプロテインをふりかけた中野が「ぶっかけられてやった」と言ったので、不覚にもジュリアまで笑ってしまった。
再び厳しい顔つきに戻ったジュリアは中野の髪を掴み、「アタシとやるんだったら、おまえは女の命を懸けられるか? 髪の毛懸けれるのかよ?」と凄んだ。
さすがに中野もこれには怯んだ。
中野はスターダムに入団して以来、一度も髪を切ったことがなかった。ボーイッシュなジュリアとは対照的にアイドル出身の中野はどこまでもかわいいことにこだわる。昔のミミ萩原のように長い髪をなびかせて戦うことがアイドルレスラーの姿であると中野は考えていた。
(アイドルレスラーの元祖、ミミ萩原)
「髪の毛? 何言ってんの?」と狼狽する中野にジュリアは「私たち、何回も何回もやってさ、普通にやるんじゃさ、誰も面白くねえんだよ。まあ、ひと晩、部屋の片隅でビビりながら考えて。明日にでも答え待ってるよ」と中野には過酷すぎる要求を突きつけてリングを降りた。
女の決意
翌日の新木場大会で中野とジュリアはタッグマッチでぶつかった。この試合は中野がなつぽいを得意のタイガースープレックスで降して幕を閉じた。
(「リングの妖精」なつぽい)
試合直後、中野がジュリアに詰め寄った。険悪な雰囲気が場内を包んだ。
ジュリア「・・・恥ずかしくもなく、ジュリアの首を狙う、おまえはそう言った。それでも私とやりたいんだったら宇宙一のアイドルレスラー、おまえにとってその髪の毛は大事だよな? その大事な、大事なものを懸ける覚悟があるなら、おまえとシングルマッチやってやってもいい」
中野「ひと晩考えることもなかった。あんたとやれるんだったら、鼻の骨だろうが、奥歯だろうが、髪の毛だろうがなんだって懸けてやってやる。丸坊主になって宇宙一ブサイクなアイドルレスラーになっても構わない。あんたとやれるんなら・・・なんでもするよ」
日頃はひょうきんな中野の鬼気迫る表情と迫力に圧倒され、今度はジュリアが怯んだ。穏やかな声で「わかったよ、おまえの覚悟」と言うに留めた。
中野の覚悟と誠意を涼としたジュリアは翌月3日、日本武道館での対戦を正式に受諾した。(後日、この髪切りマッチにはベルトも懸けられることが決定)
中野は客席に向かって「私はもう2回も負けて何も言える立場じゃないってことはわかっている・・・けど、どうしてもジュリアに勝ちたい・・・もう一度だけチャンスを下さい・・・」と訴え、深々とお辞儀をした。
果し合い
いつもとは違う中野の恐ろしいほど真剣な顔と悲壮感に溢れる声は不気味な衝撃をもたらした。観客は中野がジュリアとの「決闘」に挑もうとしていることを察知した。
通常のプロレスでは、興行に支障をきたさぬために、技にも多少の手加減が加えられる。痛そうに見えてそれほど痛くない技、危険な角度を避けた投げ技、完全に決まる前に寸止めする関節技・・・etc.
中野とジュリアの過去の戦いはすでにプロレスの範疇を越えかかっていたが、次の試合は完全に掟破りの凄絶なものになると観客は思った。二人が口にした「やべぇ試合」の意味が「果し合い」であることが大衆にも伝わったのである。
2月27日、中野はツイッターにこう記している。
「いつからかどんどん差が開いて、髪切りでも何でもいいから闘ってくれってお願いする立場になってた。死ぬほど惨めだった。・・・惨めで、惨めで、惨めで、でも今の惨めな自分を脱却するにはジュリアを倒すこと以外道はなかった・・・」
あまりにも切なく、あまりにも哀しい・・・
異例のメイン
3月3日の日本武道館は岩谷麻優VS世志琥(よしこ)のスターダム一期生対決、林下詩美VS上谷沙弥のワールド・オブ・スターダム選手権試合(通称・赤いベルト)、渡辺桃VS高橋七奈栄の新旧リーダー対決などメイン級のビッグマッチが目白押しとあって、大勢の観客で埋まった。
本来であれば、スターダム最高峰の地位を占める赤いベルトのかかった試合がメインイベントになるが、スターダムは敢えて第二のベルトであるワンダー・オブ・スターダムの選手権試合(ジュリアVS中野たむ)をラストに持ってきた。
(髪切りマッチの後に通常のタイトルマッチが続くことには無理があった)
歴史に残る大死闘
「設立10周年記念」と銘打たれた興行だけあって、どの試合も手に汗握る熱戦になった。しかし、中野とジュリアの試合はそのボルテージの高さを超越する異次元の闘いであった。
今までの二人の試合も凄絶そのものであった。特に第一戦と第三戦は死闘としか言いようのない試合であった。しかし、このたびの試合は死闘という言葉ですら表現不足になってしまう「大死闘」に発展した。
恐らくは22世紀の人々もビデオに残ったこの名勝負を鑑賞することになろう。
メインの試合前、会場にセットされた巨大なスクリーンに何十年も昔に全日本女子プロレスで行われた髪切りマッチの結末が映し出された。
(長与千種の髪を剃るダンプ松本・・・かつて敗者髪切りマッチは女子プロレスの最も残虐な試合形式とされた)
異様な緊張感に包まれる中、両選手が入場。いつものように中野は可愛らしく、ジュリアは格好良く、それぞれの流儀で颯爽とリングインした。
この日に備えて中野もジュリアも万全の準備をしていたことがわかる試合展開であった。中野のダイヤモンドカッターをジュリアが封じ、ジュリアのグロリアスドライバーを中野がリバースDDTで迎撃する新戦法などが観客を沸かせた。
(グロリアスドライバーを空中で堪えて反撃する中野たむ・・・発想力にも身体能力にも驚かされる)
序盤早々、中野が放ったローリングエルボースマッシュでジュリアの奥歯が吹っ飛んだ。
超絶死闘へ
鬼と化したジュリアは常軌を逸した攻撃で中野を防戦一方に追い込んだ。しかし、中野は必死に猛攻に耐え、徐々に反撃に出て形勢の差を縮めていった。
戦いの場が場外に移った後、試合は技と技のぶつかり合いから狂乱ファイトに移行した。
テーブルの上でジュリアは中野にパイルドライバーを見舞った。机が真っ二つに割れた。
リングに戻った二人は明日の体のことなどを度外視して、一線を越えたファイトに明け暮れた。
中野とジュリアが異様な目つきで張り手の打ち合いを始めると、会場は薄気味悪い静けさに包まれた。
静寂な空間の中で二人の女が全身全霊で顔面を殴り合う玄妙な響きだけが聞こえてくる・・・
静まり返った会場の中で、実況席の解説陣もしばらく口をつぐんでしまった。誰も言葉を発しない。二人の危険すぎる意地の張り合いを人々は固唾を呑んで見守っていた。
果し合いの様相を呈してきた。ジュリアが手を後ろに組み、ノーガードの姿勢をとって中野を挑発した。「打ってみろ!」
中野は遠慮なしにジュリアの頬に左右から張り手をかまし続けた。その回数たるや尋常ではなかった。(30回以上)
この攻撃でジュリアの鼓膜が破れ、顎が外れた。
中野の張り手の連発が終わると、今度はジュリアが張り手の速射砲を中野に浴びせた。中野にも意地がある。「打てるだけ打ってみろ!」とノーガードのお返しをした。怒り狂ったジュリアは渾身の力を込めて左右の張り手(20回以上)を見舞い続けたが、中野は最後まで倒れなかった。
会場は一転して騒然となった。
普通の女の子がこんなことをされれば、すぐに意識が吹っ飛び、全治一ヶ月の重症を負ってしまうが、鍛え抜かれた二人は平然と試合を続けた。
相互の信頼関係がなければ、このような壮絶な技の応酬はできない。
中野は相手がジュリアだから何をやっても大丈夫と信じていた。ジュリアも中野であれば手加減なしに思い切り殴っても大事には至らないと信じていた。
通常、限度を超えた攻撃は「病院直行→欠場→始末書(下手すれば、なんらかの処分or解雇」)というパターンが見えているだけに、無意識のうちに自粛してしまうところである。
伝説の技で決着
試合は最後に中野がスピンキックの連発からあっと驚く新技を出して事実上の終止符が打たれた。
ジュリアをブレーンバスターの態勢で持ち上げた中野は猛スピードで垂直落下式に落とした。ブレーンバスターではなかった。
一瞬、時間が止まった。人々は眼前に現れた信じ難い光景を呆然と見つめていた・・・
この瞬間に何もかも終わった。この試合に賭けたジュリアの努力が水泡に帰した。超人ジュリアの粘りもここまでであった。
(デンジャラスな角度でジュリアを落とした中野たむ)
実況中継のアナウンサーが「ウォーッ」と大声で叫んだ。絶叫が5秒間も続いた。
「スタイナースクリュードライバァァァー!!!」
懐かしい技の名を聞いた。スタイナースクリュードライバー、略称SSDは往年の強豪レスラー、スコット・スタイナーが開発した最も危険なプロレス技として語り草になっている。
90年代に世界を震撼させたSSDはあまりにも危険すぎるという理由で使われなくなった。
スタイナーが自主規制をしたのか、雇い主からクレームがついて使えなくなってしまったのか、その真相は誰も知らない。犠牲者、ケガ人が続出したことだけは確かである。
この技は垂直落下式のブレーンバスターとは違って、投げる前に相手の首を空中でくるりと捻る。この動作を加えただけで受身が全く取れなくなり、やられた者は死んだように動きが止まり、体がピクリともしなくなることもある。
(スコット・スタイナー・・・SSDは真似する人すら出ないほど危険極まりない技であった)
20年以上にわたって使われることのなかった幻の技の封印が日本の女子レスラーの手によって解かれた歴史的瞬間であった。
まさに「秘策」であった。ジュリアとの過去の戦いでは、序中盤で優勢を築くも終盤で崩れて辛酸を舐めることを繰り返した。スープレックス系の技を決め技に使用する中野の試合スタイルは、並みの選手には快勝できるが一流選手には勝ちにくいという難点があった。
中野の至宝、トワイライトドリームは決まりさえすれば確実にフォールが奪えるが、技を完成させるまでのプロセスが多すぎて、決まる前にふりほどかれてしまうケースが目立った。
フィニッシュに移行する前の強烈な大技を中野は模索していたのである。
凄い人である。
「宇宙一かわいいアイドルレスラー」とホラを吹き、パンダのぬいぐるみを持ってリングに登場していた中野が陰でこれほどまでに研鑽に励んでいたということを知っている人がどれほどいると言えようか。プロレスに対する貪欲さにおいて、中野とジュリアは群を抜いている。
(パンダのぬいぐるみ、「P様」を自分のロゴマークにした戦略家の中野たむ)
ジュリアとの世紀の一戦を前に、記者会見で中野は「全てを失って、その金髪もろとも武道館のリングに散れ」といつになく冷酷な言葉でジュリアを罵倒した。
しかし、それは舌鋒鋭いジュリアに対抗するための手段にすぎなかった。
(記者会見でも火花を散らす二人)
中野はジュリアとの髪切りマッチが決まった後、ヘアスタイルをいろいろと変えて、その姿をツイッター上で公開していた。下手すればあと少しでこの長い髪ともお別れになる。中野は青春の記録として、連日にわたりそのような動画配信を続けていた。ファンは中野の心中を慮って泣いた。
リング外の中野はどこにでもいるごく普通の女性にすぎない。否、中野の場合は三十路を過ぎても「女の子」という表現の方が似合う。
キャラクターと戦いぶりのギャップがこれほど激しいレスラーは他にいない。料理やお菓子作りが大好きで、御伽の国のようなガーリーな部屋はいつも掃除が行き届いている。
この可憐な女の子がリングに上がれば自分よりも体の大きい相手を軽々と持ち上げる。殴られても蹴られてもびくともしない。
ルックスからは想像できない剛腕とタフネスぶりはプロとしか言いようがなく、それだけでも絶賛に値するが、ファンは中野に実力に見合った称号(選手権保持者)を与えたくて仕方がなかった。
大死闘の終焉
ジュリアに中野のSSDが決まった時、ファンの願いは現実のものとなった。
直後のフォールをジュリアは驚異の神通力で跳ね返して見せた。しかし、SSDを食らった時点で勝敗は決していた。
ジュリアの体を起こした中野はバックを取り、自ら考案した史上最強のスープレックス、トワイライトドリームを決めた。
一年以上も見る機会のなかったこの芸術技の出現に観客はどよめいた。
(ジュリアのことだから、もしかしたらこれでも決まらないかもしれない・・・万一に備えて中野たむはトワイライトドリームの態勢に入った後、腕のロックの決まり具合を確認、念には念を入れて、がっちりと締め直してから投げた)
中野の体が鮮やかな弧を描き、リングの上に美しい橋が現れた。
村山レフェリーがカウントを取る。ワン、ツーとマットを叩き、ここで一瞬、手が止まる。レフェリーは中立でなければならないが、時には私情が入り込む。ジュリアの蘇生を願ったのか?
だが、SSDのダメージが強すぎて、さすがのジュリアも村山レフェリーの期待(?)に応えることはできなかった。
微妙な空白を挟んで、ついにカウントスリーが入った。中野の勝利がアナウンスされた瞬間、中野のテーマソング(入場用の楽曲、歌詞はこちら)が館内に流れた。
(中野たむのオリジナル技と同名の名曲『トワイライトドリーム』・・・中野が自ら作詞して歌っている)
激闘の余韻
両者の激闘を物語るように、中野もジュリアもリング上で大の字になっていた。精魂尽き果てた二人は自力で起き上がることができなかった。
ジュリアは寝たまま体を動かして中野ににじり寄り、自分を髪を中野の髪の上に、自分の腕を中野の腕の上に置いた。
熾烈な戦いが終わり、健闘を称え合う手段がこれしかなかったのかもしれない。今まで闘争心を剥き出しにして、いがみ合ってきた二人は互いの体温を感じながら無言の会話をしていた。
中野は仲間の助けを借りて立ち上がり、やっとの思いでチャンピオンベルトと勝利者トロフィーを受け取った後、リングに片膝をついてマイクを握った。そして今しがた戦いを終えたばかりのライバルの名を連呼した。「ジュリア、ジュリア、ジュリア、ジュリア・・・」
と乱れた呼吸で4回呼んだ後、
「私はやっとあんたに勝てた。もうこれ以上いらない。十分。だから、髪なんて切らなくていい」
と涙声で敗者を労わった。
ジュリアも仲間の手を借りて起き上がろうとしたが、再び倒れ、リングに横たわりながら中野の言葉を聴いていた。寝たままマイクを取ったジュリアは言った。
「私は今日、全てを懸けておまえと戦った、つもりだよ。私は髪の毛も、ベルトも、(ここでようやく上体を起こし)人生も懸けてあんたと戦って、あんたが勝ったんだよ! 違うか?」
「違わない。私も・・・あんたが全部懸けてくれたから私も全部懸けて戦った!」
と中野が言うと、ジュリアは急に寂しげな声で
「じゃあ、恥かかせんなよ」と呟いた。お情けに甘えて髪を保つことを、ジュリアは潔しとしなかった。
負けてこんなに格好良い女はいないと誰もが思った。ジュリアはどこまでもジュリアであった。
(執行用の冷たい椅子の上で思いもかけぬドラマが生まれた・・・)
リングの中央に椅子が運ばれた。まともに歩けなかったジュリアは這うようにして椅子のある場所まで行き、なんとか椅子に腰掛けた。
そして、この日のために呼ばれていた理容師からバリカンを受け取り、「おまえが切れ」と言わんばかりに中野に手渡した。
中野は苦しんだ。今までライバルとしてジュリアとはリング内外で激しくやり合ってきたが、そこにはなんの憎しみもない。
同じ女性として髪を剃り落とされる辛さは身にしみてわかる。この試合が決まってから震える夜を重ねてきた中野にとって、ジュリアの要求はあまりにも惨いものであった。
しかし、映画「ラストサムライ」のエンディングでトム・クルーズが渡辺謙の最期を介錯したように、中野は恐る恐るジュリアの髪に手をかけた。
覚悟を決めたジュリアは両目を瞑り、この時ばかりはとても悲しそうな表情を見せた。それを見てしまった中野の手は突然、震え出した。
一向に髪を切ろうとしない中野の異変に気づいたジュリアがそっと目を開ける。目の前には泣きじゃくる中野の姿があった。その女性的な優しさに、ジュリアは一瞬、感極まったが、すぐにいつもの気丈さを取り戻し、「なんでおまえが泣いてるんだよ?」と言った。
はじめて会場に笑いが漏れた。それまでの凍りついた空気が一瞬にして霧消し、どこからか暖かい風が吹いてきた。
結局、中野はジュリアの髪を切れなかった。理容師にジュリアが「格好良くやって」と声をかけた。
ここからのドラマが圧巻であった。
のどかな光景
断髪中、ジュリアはニコニコしながら中野と私的な会話を楽しんでいた。客席には聞こえない二人のリアルな会話であった。
マイクが入っていないため、会話の全容はつかめない。「鼓膜が破けたよ」とジュリアが言い、中野が申し訳なさそうな顔をしていることだけは最後に紹介する動画で確認できる。この後に中野が何かジョークでも言ったのか、ジュリアが吹き出した。
(中野たむとジュリアの微笑ましいやりとりが観客の心を揺さぶった)
これを境に二人はライバルであることを忘れ、つい先程まで極限の戦いの真っ只中にいたとは思えない無邪気な会話を始めた。
ジュリアが素の声(意外と可愛らしい)で中野に向かって何かを語り、今まで中野には見せたことのない爽やかな笑顔を見せた。
よほど嬉しかったのか、中野もジュリアには決して見せなかった最高の笑顔で応えた。中野の表情は女性的な美しさに溢れていた。人物画を描く画家が飛びつくような母性的な慈愛に満ちた美しい顔をしていた。
激しい殴り合いで顔はパンパンに腫れ上がっていたが、それは美しさに少しの影響も与えなかった。造形的な美しさではなく、澄み切った心の美しさが滲み出ていたからである。
髪切りが佳境に差しかかると、中野は立ち上がり、ジュリアを頭上から見下ろした。
ジュリアは剥げた部分がないかしきりに気にしていた。女子レスラーは頻繁に髪を掴まれるため、抜け毛が激しい。しかも、この試合の前に前哨戦を兼ねたタッグマッチで激突した二人は「髪の抜き合い」までしている。
ジュリアが中野の髪を鷲掴みして引っこ抜くという暴挙に出て、中野もジュリアに同じ蛮行を働いて報復したという経緯があった。
「剥げてる?」というジュリアの問いに、中野が悪戯っぽく「うん、剥げてる」と答え、強面キャラを貫いているジュリアが迂闊にも普通の女の子の声で「やだあ~」と叫ぶシーンが動画で確認できる。待ってましたとばかりに中野が「私がむしった跡がある!」と言ってジュリアを爆笑させたシーンは実に微笑ましい光景であった。
二人の和気藹々としたやりとりはネット上でも話題になった。「タムとジュリアは実際は仲が良いのでは?」という意見も少なくなかったが、二人は決してそのような関係ではない。
中野もジュリアもライバル心が旺盛過ぎて、必要以上に罵り合ってしまうこともあった。しかし、敵対するレスラーがよく口にする「おまえは弱い」、「自分の方が強い」という台詞はこの二人の口から一度も出たことがない。
互いに強さを認め合う二人であるからこそ、どんな辛辣な言葉を使って口論しても、相手を傷つけることはない。
二人の対立は相互信頼、相互尊敬の上に立脚したものであった。
仲良しでもなければ、憎み合う関係でもない。ある面では似た者同士でありながら、あまりにも正反対の要素が多すぎるが故に、二人はリングの中でも外でも、激しい火花を散らしてきた。
互いの強さに惹かれ合った二人は究極の決着戦を、両者が死力を尽くして戦う敗者髪切りマッチに求めたのであった。
断髪が一段落した。最後には控え室で丸坊主にされたが、ジュリアの髪はこの場では全てを切り落とされなかった。サイドとバックだけ刈り上げられたジュリアはファッション雑誌のモデルのような髪型になった。
マイクを持った中野が甘ったれた声で「ずるいよ。お洒落じゃん」と言った途端、観客は大爆笑。
昭和の女子プロ髪切りマッチでは、断髪時に観客の若い女の子が泣き叫んでいた。敗者も泣いていた。重苦しい雰囲気が会場に立ち籠めたが、令和の髪切りマッチは違った。
髪を切られながら勝者と明るく会話をする敗者、ジョークを言い続ける勝者。誰もが想像し得なかった爽やかな幕切れに観客は感動した。
「なんでおまえが泣いているんだよ」(ジュリア)で「悲壮感」がほぼ一掃され、「ずるいよ。お洒落じゃん」(中野)がトドメを刺した。もうそこには悲しさも切なさもなかった。
昭和の時代のように敗者を哀れんで泣く人は一人もいなかったが、それとは別の理由で観客の大半は泣いていた・・・
涙腺崩壊
「ずるいよ。お洒落じゃん」と言われた後、ジュリアはすかさず「おまえもやれば?」と口撃した。敗者が勝者にも髪切りを勧める滑稽さに中野が戸惑っていると、ジュリアは更に毒舌を浴びせかけた。
「おまえがやったら宇宙一ブサイクになっちゃうもんな」
中野は「本当、こういうとこむかつくよねー」と可愛らしく憤慨した後、「でもさ、こんなこと本当は絶対言いたくないんだけど」と前置きして、「私は、ジュリア、あんたがいたから強くなれた・・・ありがとう!」とライバルに感謝した。
そしてすぐに後ろを向いた。
前回の試合後にジュリアが記者団に語った同じ言葉を中野は直接、ジュリアに返したのである。ここで二人の今までの経緯を知っている観客の涙腺が崩壊。
一瞬、ジュリアも涙ぐんだ。
しかし、すぐにいつもの調子で「うるせえ」と吐き捨て、急に優しい声で「この白いベルトの価値は私が上げてやりたかったけど、おまえならやれるんじゃないの?」と言うや否やマイクを投げ捨て、椅子を蹴飛ばしてからリングの片隅に退いた。
千両役者のジュリアらしい気取った振る舞いであった。ジュリアは渡辺 桃の持つ連続防衛回数の記録を塗り替え、このベルトをワールド・オブ・スターダムを超える首位の座にしようと画策していた。
中野に敗れてその野望が打ち砕かれた今、中野に自分の果たせなかったことをやってみろ、お前の実力ならば可能性は十分にある、と激励したのである。
新王者の宣誓
中野は自信に漲った声で言った。
「私はこの白いベルトの聖なる王者として記録にも記憶にも名前を刻んでゆく」
そして、ジュリアに再び宣戦布告をした。
「このベルトの価値、上げておくからさ、あんた早く髪伸ばして逆襲しにこいよ!」
最後の言葉はアドリブが苦手な中野にしては冴えていた。むしろジュリアが言いそうなキザな台詞であった。
この試合では中野がジュリアの持ち技、グロリアスドライバーを使用するという奇策に出て観客を驚かせたが、度重なるジュリアとのリング内外の戦いを通じて、中野はプロレス技もトークスキルも盗んでしまった。
ライバル関係に戻った二人は再び睨み合った。
ジュリアが「そろそろお客さんに挨拶しろ」とゼスチャーで示唆すると、中野は観客に感謝の言葉を述べ、スターダム恒例の最後の締めにかかった。
「今を信じて 明日に輝け We are STARDOM. ありがとうございました!」
万雷の拍手が鳴り響き、再び会場に中野のテーマソング、『トワイライトドリーム』が流された。中野が立ち上げた新ユニット、コズミックエンジェルスのメンバー、白川未奈とウナギ・サヤカが中野に駆け寄り、中野を担いだ。
(コズミックエンジェルス・・・左から白川、中野、ウナギ)
感動のフィナーレ
肩車の上から中野が観客に向かって敬礼のポーズをとり、ニッコリと微笑んだ。とても可愛かった。
その天真爛漫であどけない顔をジュリアはリングの下から暖かい視線で見守っていた。
そして、関係者に「今、何時何分かわかりますか?」と、とても丁寧な口調で尋ねた。
二度目の緊急事態宣言の影響でスターダムは午後8時までに興行を終えるように行政側から要請を受けていた。まだ多少の時間があることを知ったジュリアは急いでリングに戻り、肩車から降りた中野に握手を求め、右手を差し出した。
雪解けムードになったとはいえ、今までジュリアとの間にひと悶着もふた悶着もあった中野はほんの一瞬、握手を躊躇った。
ジュリアは素早く右手を引っ込め、左手で中野の右手をぎゅっと掴んだ。瞬く間の出来事に何がなんだかわからず唖然とする中野・・・
(突っ張り通したジュリアも最後は中野たむの偉業を称えた)
気がつけば、ジュリアは中野の手を高々と上げ、観客に拍手を促していた。戦友の粋なはからいに中野は思わず目頭を熱くした。
大勢の観客が泣いていた。溢れる涙をマスクで拭う人もいた。コロナ禍で苦しむ人たちに、中野もジュリアも、未来永劫心に残る「感動」という名のギフトを贈ったのであった。
悲願のベルトを手にして花道を歩いて退場する中野に今一度、拍手の嵐が巻き起こった。
中野が出口の近くまで来た時にリングアナが中野の名をコールした。
「第15代ワンダー・オブ・スターダムチャンピオン、ナカノゥ タムゥゥゥ!!!」
万感の思いを胸に中野はベルトを抱きしめて大号泣、その場に倒れ込んでしまった。武道館を満員にしてコンサートを開くというアイドル時代には果たせなかった夢が形を変えて成就した。
花道で倒れた中野は会場に響き渡る『トワイライトドリーム』、自分自身の歌声に聴き入っていた。今、手にしている白いベルトはかつて追いかけた遠い虹であった・・・
チャンピオンになってこれほど狂喜したレスラーを今までに見たことがない。
激闘の後に展開されたこの熱いドラマの一部始終を下の動画は歴史の語り部となって伝える。
控え室で報道陣の取材に応じたジュリアは「中野たむと同じ時代にレスラーになり、中野たむと出逢えたことが嬉しい」と中野との邂逅を喜ぶコメントを残した。
Epilogue
一夜明け、中野はツイッターを更新した。そして昨日の敵に改めて感謝の意を表した。
「ジュリア、ありがとう。あなたがいたから、私は強くなれた」
これに対するジュリアの返信が心憎いほどクールであった。
「最初っからムカつくくらい強いよ。おめでと」
デュエルの第一章を終えた二人は次なる闘いに向けて再び歩み出した。(了)
リヴィエラ倶楽部
佐々木智親

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