関連コラム:
追悼・佐藤忠志先生
カリスマ予備校講師からタレントに転身して「金ピカ先生」の愛称で親しまれた佐藤忠志先生が孤独死を遂げたというニュースには心を痛めた。
(ありし日の金ピカ先生)
最盛期に2億円の年収を誇った金ピカ先生が亡くなる直前は生活保護を受けていたという衝撃的な事実にメディアの報道が集中したが、大衆の興味を引くために故人の不名誉なことを中心に報道するマスコミの体質に筆者は憤りを感じている。
筆者は別のことにショックを受けた。
陽気な人柄で周囲の人々に笑いをふりまき、誰に対しても優しく、常に前向きな生き方をしていた金ピカ先生が人生の末路には生きる情熱を完全に見失い、「やりたいこともなければ、やることもない」と自宅に引き籠り、朝から晩まで酒びたりの生活であったということを知り、涙が溢れて止まらない。心より哀悼の意を表する。
金ピカ先生との出逢い
一般的にはパチプロとして知られる筆者であるが、本業は英語の通訳である。大学入学前、筆者は金ピカ先生に大変お世話になった。今の自分があるのも金ピカ先生のお陰かもしれない。
金ピカ先生から英語を学び、英語で生計を立てるようになった者として、感謝の念を込めて金ピカ先生の思い出を綴ることが今の自分ができる唯一の恩返しであると思い至った。
高校卒業後、浪人生活を余儀なくされた筆者は大学受験予備校の老舗、代々木ゼミナール(代ゼミ)に通っていた。
当時の金ピカ先生は代ゼミの中では三番目か四番目に人気のある講師にすぎず、トップクラスの人気講師ではあったが、チケット争いが起こるほどではなかった。
代ゼミでは人気講師の講座の受講券をチケットと呼ぶ習わしがあり、人気講師の講義はミュージシャンのライブのようなものとして売り出されていた。特に古典を教える土屋先生という人に人気が集中していた。土屋先生はクイズ番組のレギュラー出演者として知名度が高く、チケットが飛ぶように売れた。
この数年後には金ピカ先生もテレビに出演しまくるようになり、先輩の人気講師陣をなぎ倒し、人気ナンバーワンの座を射止めることになるのだが、筆者が代ゼミにいた頃は金ピカ先生の講義を受けるために徹夜の行列ができるという異常事態はまだ生じていなかった。
それなりの人気はあったとはいえ、金ピカ先生の講義は難なく受講することができた。筆者を含め、金ピカ先生のファンはやくざ風のファッションがお目当てでこの人の追っかけをしていただけであった。
講師紹介のパンフレットでひときわ目立つ金ピカ先生の写真に興味を覚えたことが金ピカ先生との出逢いにつながった。
人気に火をつけた異様なファッション
のちに時代の寵児となり、毎日のようにテレビに出演するようになった金ピカ先生のファッションは全国民にお馴染みのものとなったが、テレビ出演時の金ピカ先生の衣装はあれでもかなり控え目な方であった。
金ピカ先生もタレント生命を維持するために、極端に異様な服だけは避けていたように思う。無数に有している服の中から(あれでも)比較的品のあるものを選んでいた。
代ゼミで教鞭をとる時の金ピカ先生のファッションには毎度の如く度肝を抜かれた。テレビで見る金ピカ先生の服装とは派手さが違った。たとえば、白のジャケットにオレンジ色の円が散りばめられていて、ネクタイには蛇や竜の絵が躍動していた。
ネクタイを着用しない時は少し開いた胸元から何百万円もする純金のネックレスが二つも三つも光り輝いていた。他にも巨大なダイヤモンドの指輪、ルビーやエメラルドのブレスレット、ロレックスの腕時計などアクセサリーには事欠かず、全身がジュエリーの展示会と化していた。
靴にも宝石が埋め込まれていて、ズボンも普通ではなかった。通常のスラックスではなく、エルビス・ブレスリーのパンタロンのような不思議なズボンを召されていた。ズボンの横には仮面ライダーのような二本のラインが入っていた。筆者は「先生、こういう服はどこで購入されるのですか?」と訊いたことがあるが、「大体、イタリアだね。国内ではなかなか僕の趣味に合う服がなくて・・・」と自慢気味にニコっと笑った金ピカ先生の笑顔が今でも忘れられない。
笑うと非常に可愛らしい顔となり、誰もが抱く「怖い人」という勝手な先入観とのギャップが際立った。これが金ピカ先生の人気の原動力であった。
第一印象とのギャップ
イメージの良い人、好感度の高い人というのは必ずしも得をしない。何事にも第一印象は大事である。第一印象の良さは就職の面接のような一発勝負には強みを発揮するが、人との長いつき合いが始まると、第一印象が良い人ほどハンディを背負ってしまう。
万人に好感を抱かれる人は最初の印象が良すぎるが故に、周囲から過大な要求を突きつけられる。知らぬまに現実を遥かに上回る人物像が出来上がってしまうため、行動に多少の失点が出ただけで他人を幻滅させてしまう。
平均的な人が犯す多少の腹立たしい行動は許容するのに、自分が素晴らしい人物と思い込んでいる人が同じことをすれば、第一印象とのギャップが露わとなり、失望してしまうのである。
一方、金ピカ先生のような人はその正反対にあたる。ちょっとした魅力が見つかっただけでも人は感動する。
世の中に優しい人はいくらでもいる。普通の人が誰かに親切なことをしても別段驚くに値しない。しかし、見るからに恐ろしそうな人が実は心の優しい好人物であったということがわかっただけで人は胸を撫でおろし、その人を高く評価する。金ピカ先生はこのようにして徐々にファンを増やしていった。
何気ないエピソードが・・・
講義中の雑談でこんなことがあった。金ピカ先生が「先日、電車で僕の前にお年寄りが立っていたんです。で、席を譲りました。こんなこと人として当たり前じゃないですか。ところが、当たり前のことをしただけなのに、物凄く喜ばれて・・・」と言った時、クスクスという小さな笑い声が教室の至る所から聞こえてきた。金ピカ先生が「なんでかな?」とニヤニヤしながらすっとぼけたので、すかさず筆者が「それは先生が悪人に見えるからですよ」と言った途端、教室全体が爆笑の渦に包まれた。
未成年の分際で立派な社会人に随分と失礼なことを言ってしまったと猛省しているが、この出来事が金ピカ先生と筆者との絆を深めた。
破天荒を絵に描いたような生き方をしていた金ピカ先生は、アウトロー的な匂いが漂っていて、相手が誰であろうと物怖じせず、思ったことをストレートに言い放つ慮外者の筆者をとても可愛がって下さった。
金ピカ先生の発音
筆者は高校時代から独学で英文法の研究や英会話のトレーニングに励んでいた。穴埋め問題のような受験英語には少しも興味がなかった。金ピカ先生は受験英語の指導もうまかったが、学校では習えない英語のスラングなども教えて下さった。それが筆者のその後の人生に大いに役立った。
金ピカ先生の英語は発音に特徴があった。通常、学校の教師や予備校講師はカタカナ英語を少しだけマシにした程度の発音しかできない。
代ゼミの英語講師の中には、whateverを豪快に「ホテバー」と発音している人もいた。こんな発音ならば、whateverがネイティブスピーカーの耳にはhotel's barに聞こえかねないと筆者は余計な心配をしたりもしたが、金ピカ先生の英語の発音はひと味違った。
多少、英語っぽさを強調しすぎる気障なところがあったが、日本人訛りの英語に慣れていないネイティブスピーカーにも十分に通じる発音であった。
厳密に言えば本場の英語とは少し違うのだが、真の英語を知らぬ大半の受講生は、金ピカ先生の発音を超一流のものと信じ込んでいた。
金ピカ先生は英文を読み上げる時に、一見して日本人離れしていると思わせる発音を披露しては受講生から尊敬を集めた。
学校の教師や予備校講師の大半はget onというフレーズをさすがに「ゲットオン」とは発音しないが、「ゲトン」と言う人が多い。別にこれでも問題はない。
しかし、金ピカ先生には米語志向があり、tとoをリエゾンさせる時にtをrに変えて、get onを「ゲロン」と発音していた。今でこそアメリカ人に囲まれている時などは無意識のうちにそのような発音になってしまうこともある筆者であるが、当時はこの類の英語があまり好きになれなかった。
説得力
ある日、昼休みの時間に筆者は講師室で寛ぐ金ピカ先生を訪ね、「get onはゲロンと発音しなければいけないのでしょうか?」と意地悪な質問をぶつけてみた。そんなことはどうでもよいということはわかっていたが、金ピカ先生と一対一で話をする時間が欲しかったので、その口実として、いろいろな質問を考え出しては講師室に足繁く通っていたのである。
筆者の意地悪な質問に金ピカ先生がどのように答えるのか興味津々であったが、やはり金ピカ先生は才人であった。「自分の家のことを『僕のうち』と言うじゃない。これを『ぼくんち』と言う人もいるよね。それと同じでどっちでもいいんだ」
筆者は唸った。専門的、学問的には(言語学上)正しい回答とは思えないが、誤答であるとも言い難い。何よりも人を説得させるものがある。
この説得力こそが学校の教師にはない金ピカ先生の武器であった。何を教えるにしても受講生に「なるほど」と思わせる。一回の講義で何度も「なるほど」と感心させられる場面があるため、自分の学力が向上しているという実感が伴うのである。他の人気講師にも共通するわかりやすい指導も金ピカ先生の予備校講師としての実力を示すものであった。
贈り物の山
金ピカ先生の講義が始まる前は教壇の上に女子受講生から送られるプレゼントが山積みになっていた。
沢山のチョコレート、ケーキ、キャンディーなどを授業のたびにもらう金ピカ先生は律義にも休み時間に全部食べていた。それが災いして肥満体型になってしまったが、こんなところにも送り主に対する優しい気遣いが感じられ、筆者は金ピカ先生の人柄にますます惚れ込むようになった。
大抵のプレゼントには手紙がついていた。ラブレター風のお洒落な封筒を開けると、ピーターラビットが挿絵になっているような可愛らしい便箋が出てきて、この年代の女の子が愛用する丸文字で「佐藤先生、こんにちは。いつも熱心に私たちをご指導いただき、ありがとうございます」というような礼状が綴られていた。
しかし、礼状の部分は異常に短く、ありきたりのお礼の言葉の後は、「先生はどんなタイプの女性が好みですか?」、「今まで人生で一番怖かったことを教えて下さい」といったプライベートな質問が続くのが定型パターンであった。
講義を始める前には受講生からの手紙を読み上げ、質問に答えることが金ピカ先生に課せられた義務になってしまった。
冠婚葬祭では司会者が電報を披露するが、その量が多い時は一部だけを紹介して以下割愛となる。しかし、律儀な金ピカ先生は前の日に一所懸命に手紙を書いた受講生の気持ちを傷つけてはならないと全て手紙を読み上げた。時には講義(90分)の前半45分が手紙の紹介と(英語とは無関係な)質疑応答に費やされてしまうことすらあった。
やくざを怯えさせた金ピカ先生
金ピカ先生の無駄話ほど楽しいものはない。予備校の講義というよりは芸人のトークショーに近く、受験戦争の真っ只中にある受講生の多くにとって、それが束の間のオアシスになっていた。
「今まで人生で一番怖かったことを教えて下さい」という質問に対する金ピカ先生の回答には大勢の受講生が笑い転げた。
「真夜中の高速道路のサービスエリアで僕はヘマをしたことがあります。やくざのベンツと軽い衝突事故を起こしてしまったんです。これはやばいことになったと思いました。明らかに僕の方が悪いんです。ベンツの修理代はバカ高いですよ。200万、300万円は覚悟しましたね。しかも、相手はやーさんですからね。いろいろな言いがかりをつけてきて、その3倍、4倍も請求されたらどうしようかと震え上がりましたね。でも、こんなことでビビッては男が廃ると思って、意を決して、謝罪のために車から降りたんです。ベンツからは白い靴を履いた怖い男が出てきました。『テメー、バカヤロー』とか叫んでいましたね。そりゃもう怖かったですよ。不覚にも足がガクガクしていました。ところが、その時、運が良いことにトラックが後ろから走ってきて、そのランプで僕の全身がライトアップされたんですよ。すると、先方は突然、大急ぎで車に戻って、そのまま逃走してしまいました。 僕のことをより上級のやくざとでも思ったんですかね? 僕がもっと良い車に乗っていたのも向こうにとっては怖かったかもね。いつも僕は人から服装の趣味が悪いと言われているんだけど、この時ばかりはこのファッションに助けられました」
一体感を醸成する技術
教室内は笑いが止まらず、授業どころではなくなった。いつもこんな風にどこまでが実話でどこまでが脚色なのかわからない爆笑話を披露するのが金ピカ先生の特技であった。
話術が非常に巧みであり、文字にすればそれほど面白くない内容でも、顔の表情や間の取り方といったあらゆる技術を駆使して聴衆の爆笑を誘発するため、文字通りに笑い転げる人が何人か出てくる。
桂文枝(旧名・桂三枝)さんはトーク番組「新婚さんいらっしゃい」でゲストの若い夫婦との語り合う時、ゲストがひょうきんな発言をした瞬間に絶妙のタイミングで椅子から転がり落ちるパフォーマンスを見せる。金ピカ先生のトークショーでは、これと同じことを目立ちたがり屋の受講生がすることもあった。
もちろん、受け狙いでわざとやっているのだが、金ピカ先生は「君、大丈夫か?」と椅子から落ちた人のところに走り寄り、「常軌を逸した話をした僕が悪かった」などと大真面目に謝るので、そこで再び笑いが起こる。このように聴衆との一体感を醸し出してライブ(講義)を盛り上げる一流のテクニックにも魅了された。
鋭い洞察力
しかし、中にはユーモアというものを全く歓迎しない受講生も少数ながら存在する。彼らは金ピカ先生の無駄話にイライラしていた。高い金を払って受験英語の攻略の仕方を習いに来ているのに、講義の半分が英語とは無関係な話では困るという彼らの気持ちもわからなくもない。
しかし、金ピカ先生の偉大なところは、話をしながら受講生の隅々まで観察していて、偏屈な人から突き刺さる無言のクレームにも敏感なことであった。
金ピカ先生は手紙の読み上げ、プライベートな質問への回答が終わると、大急ぎで講義を始め、非常に効率良く重要ポイントに絞って懇切丁寧な解説を行う。時には無駄話の最中に不満そうな表情を浮かべていた受講生のところまで行って、「君、何か質問あるか?」と問いかけたりもした。
ガリ勉の受講生というのは大抵は気が弱い。本当は聞きたいことが山ほどあるのに、「いや、特にありません」と優等生ぶるのが彼らの特徴である。
金ピカ先生は堂々としていない態度や曖昧なものの言い方を快しとはしない。「君、本当は聞きたいことがあるんだろ? 遠慮せずに何でも聞いてくれよ」と言って、その人の肩をポンと叩くこともあった。
さすがにそこまでされると小心者でも少しは気が和むのであろう。「では、お言葉に甘えて質問させていただきますが・・・」といった類の優等生的な枕詞の後に「この前置詞の用法がよくわかりません」と筆者から見れば実にくだらない質問が返ってくる。しかし、筆者と違って人格者の金ピカ先生は「今のは良い質問です。君の勉強量には感心しました」とか言って、その人を称える心の広さを持ち合わせていた。
金ピカ先生から学んだもの
筆者は金ピカ先生の他者に対する思いやりの深さに感動した。それが筆者の人間形成の上で果たした役割は途轍もなく大きい。金ピカ先生からは英語以外のことも多く教わった。
金ピカ先生の死を偲ぶにあたり、最後に金ピカ先生から学んだ人生訓の一つを分かち合いたい。
学力至上主義、過熱化した受験戦争の恩恵で栄えた予備校ビジネスのど真ん中で活躍した金ピカ先生は心の底では偏差値や大学ランキングのようなものを毛嫌いしていた。究極の矛盾と申してもよかろう。それは講義中の雑談の節々に表れていた。
筆者が最も印象に残っている金ピカ先生の教えは「人間にとって一番大切なことは他人を大切に扱う姿勢と、いざという時に迅速かつ的確な判断を下す能力である」という金言である。これは金ピカ先生の口から何度も出た言葉である。
「僕には高級外車や日本刀のコレクションといった自分だけの世界があります。やりたいことは全て行動に移すのが僕の生き方です。しかし、好き勝手に生きるためには最低限のルールがあるんです。それは社会に害悪をもたらす人間にはならないこと。常に周囲の人を助ける慈愛の精神を育むことです。これさえ実行していれば、あとは何をしようが自由です。人からどう思われようと、自分が本当にやりたいことをなんでもやればいいんだ」
折に触れてこういう発言をするたびに、金ピカ先生は「これ、大事なことだからよく覚えておいてね」と念を押していた。
「予備校で働いている僕がこんなこと言っていいのかどうかわからないけど、偏差値の高い大学に入ったところで、それだけでは人生何も変わらないんだ。人生において重要なことは、いざという時に迅速かつ的確な判断ができることですよ。良い大学を出てもこの能力がなければ全く意味がない」
と事あるごとに金ピカ先生は同じことを強調していた。
予備校講師の枠からはみ出ていた・・・
熟年の身となった今、筆者は金ピカ先生の金言を噛みしめ、その慧眼ぶりに脱帽している。当時の金ピカ先生はまだ30代半ばの若さであったが、世の中を見通す目を持っていた。
予備校講師時代の金ピカ先生が受験英語の指導以上に心血を注いだことは人間教育であったかもしれない。
当時の世の中は現代と比べて学力至上主義という点では明らかに病んでいた。
進学校では新年度が始まると職員会議で校長が「今年、本校からは●●名が東大に進学し、早慶上智への進学者は合計で●●名でした。来年は東大に●●名、早慶上智には最低でも●●名は送り出すように指導に励んで下さい」というような訓告を出すのがよくある光景であった。こんなことの重要性はいかばかりかと甚だ疑問に思う。
学校は生徒の偏差値アップに血道を上げ、学校が終わった後に生徒は塾や予備校に通う。そこでも偏差値を上げるために様々な訓練が行われ、方程式は解けても靴の紐さえ自分では結べないアンバランスな人間が製造される。
夜遅く塾や予備校から帰宅した子供たちは疲労困憊で両親や兄弟姉妹と話をする気力すらない。親は子供を立派な人間に育て上げたいと望んではいるが、子供とコミュニケーションをとる時間がない。人としての道(道徳・倫理)や人生に必要な知恵というものは子供が未成年のうちに叩き込まなければ意味がない。成人になってからは教えられたことを素直に吸収する力がもはやないからである。
当時は勉強のし過ぎでノイローゼになった子供が教育熱心な親を殺害するという悲しい事件が相次いでいた。諸外国でも覚醒剤の氾濫が原因で似たような事件が社会問題となっているが、我が国では予備校や塾の氾濫が不幸な出来事の遠因にもなっていた。
金ピカ先生は子供たちが家庭や学校で教わらなければならないことを教わっていないことを非常に危惧していた。
元来、予備校とは試験テクニックを磨くための場所である。人間教育は業務外である。それを百も承知でひと肌脱いだ金ピカ先生は金八先生のような人でもあった。合掌
リヴィエラ倶楽部
佐々木智親
<英語コラム>
<当ブログの看板コラム>
スポンサーサイト
2019/10/01 (火) [人生論]