
【HP】 「海物語シリーズ攻略の秘伝公開」
冒頭で日本の自殺者の数が異常に多いことに触れたが、フィリピンでは誰かが自殺をすれば大騒ぎになる。自殺を猟奇殺人と同じレベルで驚く人もいる。人は自ら生きているのではなく、「神によって生かされている」という考えが大半のフィリピン人にはある。神からいただいた尊い命を自ら絶ってはならぬということは日曜日に教会に行かない怠け信者でさえ心得ている。神から授かった命は神の計画によって終わりを迎えると信じている。その終わり方が老衰であろうと、病であろうと、交通事故であろうと、「全ては神のはかりしれない摂理のうちにある」と彼らは考える。自ら死を選ぶということは、無断で神の計画を変更させることになるので失礼極まりないことであると、無学な人も高学歴の人も信じている。それが自殺発生率の低さにつながっているのは火を見るより明らかである。
日本では年々増加する自殺の原因を生活苦に求める風潮が強い。では、何故、貧しかった戦時中の方が自殺者の数が少なかったのかという素朴な疑問に直面するが、それに対する答えをうやむやにしながら「貧困が自殺の最大の原因である」と強引に結論を下す専門家が後を絶たない。実際は逆である。貧しい国ほど自殺者が少ない。冒頭では物乞いの話もしたが、インドに行けばフィリピンの何倍もの物乞いで賑わっている。中には重病にかかり、病院にも行けず、瀕死の状態で生きている人もいるが、誰も自ら命を絶とうとはせず、自然の死を待っている。
インドの貧民街で死にかけた人々を抱擁し、施設に運んで世話をしたノーベル平和賞受賞者、福者マザーテレサは多くのジャーナリストからその福祉事業を称えられるたびに「私は福祉事業家ではありません」とむきになって反論した。彼女は常にこう語った。
「私たちの施設には、病院のような高度な医療設備もなければ高価な薬もありません。私たちは尊い生命の終焉を迎えようとしている人に人間の尊厳をもって死んでいただくためのお手伝いをしているだけです」
確かに、その施設の名は日本語に訳せば「死を待つ人の家」である。彼女はいつでもどこでも同じことしか言わないシンプルな人である。シンプル性を最大のセールスポイントにした初代海物語と同様、そのわかりやすさに人気があった。上記の台詞などは世界各地で何千回繰り返されたことだろう。何千回も繰り返された彼女の名言には次のようなものもある。
「愛の反意語は憎悪ではありません。愛の反意語は無視(無関心)です」
ずしりと心に響く言葉ではないか。インドで彼女に抱かれ施設に運ばれた人は死ぬ直前に満面の笑みを浮かべて生涯を閉じるという。誰からも相手にされず孤独の淵に沈んでいた人がほとばしる愛に触れ、人間の輝きを取り戻す。こう言えばロマンティックになるが、彼らの体にはウジが沸いている。何年間も風呂に入っていないような人々を彼女は抱擁し続けたのである。自分にこれができるだろうか。一回くらいはできるかもしれない。いやできる。しかし、飽きもせず何十年にわたり信念を貫き、不潔な貧民を抱擁し続ける忍耐力は自分には絶対にない。しかし、彼女はそれを喜びながら実行した。これは何億円もの寄付を貧民に施すよりも偉大なことであると思う。
残念ながらマザーテレサの名言は日本のマスコミでも報道されたが、それを理解する人はほとんどいなかった。今回のフィリピン紀行においては、現地の高位聖職者をはじめ、カトリックの司教、司祭らとの出会いの場もあった。彼らの話によれば、マザーテレサの設立したMissionaries of Charity (神の愛の宣教者会)への入会志願者がフィリピンでは急増しているらしい。しかも、極めて裕福な家庭で育ち、名門大学を卒業し、華やかな職業に従事する若い女の子が突然世を捨て、Missionaries of Charityの修道女(シスター)になるケースが多いという。フィリピンとは実に不思議な国である。
私は考えた。日本で自殺者が多いのは深い孤独と関係があるのではないか、と。誰からも相手にされず、声さえもかけられず、愛する人もいなければ自分を愛してくれる人もいない。この状況で人は絶望のどん底に追いやられ、衝動的に電車のホームから飛び降りたり、ビルの屋上から飛び降りたりするのではなかろうか。飛び降りた瞬間に「こんなことはすべきでなかった」と一瞬、後悔した後に死という結末を迎えるような気がするが、死人に真相を尋ねることはできない。いずれにせよ、貧困が人の人生を狂わせるのは事実だが、貧困そのものが自殺の直接的原因とは思えないのである。
人の不幸は自殺だけではない。人の心に大きな傷跡を残す離婚も不幸と言わずなんと言おう。夫婦が毎日のように口論しているうちはその夫婦に離婚はない。しかし、口論しなくなった後は、和解ではなく離婚に向かって突き進んでゆく。もはや相手の存在に関心すらなくなると、人は言い争う気持ちさえ起こらない。互いに静かに無視し合い、なんの諍いも起こらなくなる。そこには冷え切った空気だけが残る。争いがないというのは一見すると平和そのものに思えるが、実は平和とは対極の状態がそこにある。マザーテレサが言うように、「愛」の反意語は「争い」ではなく「無視」である。
奥さんの言うことをなんでも聞き入れてあげたのに離婚されてしまう哀れな男が世の中には少なくない。
たとえば、わがままな妻が「この服買ってちょうだい」と夫にせがむ。夫はその高価な服を妻に買い与えれば子供の学費を支払うのが苦しくなるという考えが脳裏をかすめる。しかし、渋れば妻がうるさいので仕方なく買う。そして、今度は「新車がほしい」と妻のわがままぶりもますますエスカレートしてくる。本来ならば、夫はこのあたりで一家の長としての正しい権能を行使し、「贅沢はやめろ」と妻を一喝すべきである。「今は買えないが、あいつ(子供)が大学を卒業して社会に出れば一段落する。その時まで待ってくれ」とでも言えばよいものを、口論になるのが面倒なのでついつい買ってしまう。愛情から湧き出たプレゼントであれば、どんなに安い物でも女は幸せになる。逆にどんなに値のはる物であろうと、「面倒くさい」、「これ以上かかわりたくない」という動機から生まれたプレゼントであれば女は満たされない。
わがままな女ではあっても、女性は一般的に人の心の微妙な動きを読みとるのが男よりもうまい。結果的に妻はなんでも言うことを聞いてくれる便利な夫に愛想を尽かす。「この人は私を愛しているのではなく私を煙たがっているだけなんだ」、「この人はもう私のことに無関心だから叱ってもくれない」、このように考え、ある日、突然、妻の方から離婚話を持ち出され、「何故なんだ? なんでも言う通りにしてやったのに」と男は狼狽する。こんなことが日本の家庭には多いような気がする。愛のない孤独の世界で人は生きてゆけない。自殺に限らず、離婚の増加も深い孤独との関連があるように思えてならない。
会社でも同じことが言える。無能力社員という烙印を押され、窓際部署に追いやられた人は一日の過ごし方に苦労する。これといった仕事もないので自分で何かを提案して自分の仕事を作らなければならないわけだが、誰に何を提案しても全く相手にされないため、ますます居心地が悪くなる。大企業ならば余剰人員を養うこともできるので、その人は決して解雇にはならない。これといった仕事もなく毎日、定時で退社できる。連日の残業に苦しむ人は少しばかり憧れるかもしれないが、このような境遇に陥った人々の大半は自ら会社に辞表を出す。そして、前の会社よりも遥かに給料の低い会社に再就職したとしても、そこで自分が価値ある存在として認められ、多くの人の関心の的になれば、その人は再び幸福を取り戻す。
他人から向けられる敵意には辛うじて耐えられても、徹底無視のレーザービームには誰も耐えることができない。子供のイジメ(校内のイジメ)も大人のイジメ(社内のイジメ)も本質は同じなのかもしれない。
暗い話はもうやめよう。それにしても、たった3万円でフィリピンに行って帰ってきただけなのに今回の旅はいろいろな思索を私に与えてくれた。飽きるほど聞いた韓国人の批判だけは少し耳に痛かったが、南洋の国の純朴な人々と出会い、貧しいながら強い信念に支えられた生きざまを目にした私には、命の泉とでも言うべき活力が沸いてきた。
リヴィエラ倶楽部 佐々木智親
(最強攻略法・海殺しXの開発者)
New→海殺しX、大海物語4で大爆発!

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2008/04/30 (水) [英語]
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